2011年03月22日

応急危険度判定 仙台市青葉区中山編

昨日3月21日(月曜日)は、応急危険度判定で、仙台市青葉区中山周辺に行ってきました。
この日は、天候も荒れることなく、比較的調査のしやすい一日でした。
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折立地区と同じように、ここでも地面が滑っているようで、こうした亀裂がいたるところに出来ていました。

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上の写真では、ちょうど建物の「きわ」で亀裂が生じているために、数十センチほど地面が陥没しているにもかかわらず、建物自体には比較的損傷が少ないのですが、このすぐ隣の住宅では、その亀裂がちょうど建物にぶつかっている場所で、基礎が割れてしまっています。

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また他の場所では、地面が滑ってズレているために擁壁が押されており、擁壁の中腹が孕んでしまっていました。その結果、擁壁が5,60cmほど落ちてしまっていました。(下の写真)

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更にひどい場所では、擁壁が崩落してしまっています……。

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今回の地震では、地盤が少し滑り落ちるような現象が発生しているようです。そうして生じた亀裂によって、建物や擁壁が破壊されているようです。
前の宮城県沖地震の際に大きく被害を受けた地域が、今回は殆ど被害を受けていなかったり、前回に無被害だったところが、今回には大きく被害を受けていたり、ということがあるようです。
今後の調査によって宅地造成の際の構造基準が見直されるかもしれないと思いました。

判定を終えて、天気も良かったので、はじめてスーパーの行列に加わってきました。
二百人ほど並んでいたのですが、大きなスーパーだったために、十分ほど並んだだけで中に入れましたが、

……ああ……

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……ああ……

上の写真をみると、本当に物不足のように見えますが、ある一角はこのように品切れで何もない状態ですが、その他のコーナーには思ったより多くの品物がおいてありました。
当然、品の種類はかなり偏っていますが、しかし、この数日でかなり状況は好転しているようです。

手島
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2011年03月21日

四国からの給水車

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きのう出掛けた地区の応急危険度判定では今治市からはるばるやってきた給水車の活動に出くわしました。

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東北地方の住人からすると「イマバリ??」あまり馴染みのない地名ですが、私は古い記憶を総動員して掘り下げ、「四国!愛媛だ!」とやっとのことで気付きました。

話を聞くと、この給水車に乗って、はるばるやってきてくれたそうです。夜は浄水場の会議室に泊り込み、カップラーメンと缶詰を主食としながら、毎日こうして給水活動を行ってくれているのです。

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「この人たち、四国から来てくれてるんだって!」
近所のオバサンが驚嘆の声を上げ、そこからいろいろと日本列島を又にかけた世間話が広がっていました。

街の中でもこうして被災者救援活動を地道にに行ってくれている他の地域からの応援隊を見かけますよねぇ。
浜松市からガスの復旧作業を手伝いに来ている方たちも見掛けましたし、神戸市からは阪神淡路大震災の教訓を活かした被災者救援活動を行うために来ている神戸市の職員たちにも出くわしました。
こうした遠方から差し伸べてもらっている救いの手も、これからは見掛ける度に、このページにUPしてゆきたいと思います。
手島
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2011年03月20日

地震と日常生活

ご承知の通りの災害などもあり、しばらく中断してしまっていた、このブログですが、あまり大きく言葉を並べずに再開したいと思います。
今回のことについていろいろと前置きを並べようとすると、その災害の規模の規模の大きさ、それぞれの方々の抱えてしまった悲しみに見合った言葉など見つかるはずも無く、黙祷のように黙り込んでしまうしかありません。
また、こうしてこのブログを再開するにふさわしい人が誰か、ということになると、そういった方々は、災害対応に追われていたり、または被災をされていたり、ということもあります。

そんなこともあり、あえてこのまま、この数日で私が目にしたことをそのまま、お話したいと思います。

こうした事態の際には私たちには県や市からの要請で建築物の「応急危険度判定」という業務にボランティアで駆り出されるのですが、先日の応急危険度判定で、折立団地近辺に出掛けてきました。
応急危険度判定とは、その建築物の中に人が退避していてよいかどうかを応急に診断し、三種類の危険度(安全度)に判定する、専門家による作業です。「危険」と判定されれば、住人はそこに住むことが出来ず、別の場所に退去せざるを得ません。
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団地の中のある一角は、特に被害がひどく、団地の地面全体が大きく滑り落ちているような地区もありました。

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また、断層によるものだと思われますが、地面が50センチほどの幅で大きく裂けている箇所もありました。そうした箇所は、長さ100メートルほどに渡って、敷地の境界など関係なく無残に裂けていました。

わたしが参加した数日は、天候が悪く、吹雪の中で凍えながらのの判定となりましたが、天候悪化のために判定中止となると、急に青空が広がったりと、ヘンな天気でしたね。
雨や雪になると、手がかじかんで、調査票に記載できないし、調査票が雨にぬれてぼろぼろになったりと、本当に大変なんです。雪に覆われてしまうと地割れが見分けられなくなり判定がし辛くなってしまいますし、何よりも歩行に危険です。当然地面があると思って足を踏み出したところが、地割れで地面が裂けてしまっている、ということがあるんです。

担当地区の業務が終わり、事務所に戻る道すがらの、街の様子です。
仙台朝市では皆さん行列して生鮮野菜を買っていました。
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一番町通りでも、こうして露店が立ち……、
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こうした活気ある風景は本当にホッとしますね。

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まだ電気が通っていない地域の人たちにとっては「携帯電話の充電切れ」が深刻なようで、こうして充電をしていました。

事務所での雑用を終え、吹雪の中を自転車で帰宅するのも気後れして、この日は前々日に再開したという市バスで帰宅することにしました。
「混んでるだろうなぁ」と予想して6時にはバス停に並んだのですが……、
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藤崎前がこんなに真っ暗でした。

待てど暮らせどバスは来ず、暗い吹雪の中をじっとバスを待っていたのですが、隣で同じく待っていた外国人(インドかバングラデッシュあたり?)が、「あなたのバスは30分前に出たヨー」って教えてくれたり、その隣のオバサンが「30分前に出たってことは、昨日は一時間半待ってやっとバスに乗れたから……」と教えてくれたりします。
親切にも「そこに行きたいんだったら、こっちのルートで行って、こう歩いたほうが良いんじゃないの?」などと教えてくれたり、一時間ほど待った末に来たバスに急いで乗り込んでしまった私に、後ろから来たバスを指差して大声で「あのバスのほうが良いよー!!」と大声で教えてくれたり……。

被災の度合いの少ない私たちにとっては、今回の災害では、隣り合う人同士が会話する大切さを改めて教えられたような気がします。野菜を買うために並んでいても自然に隣の人たちと話しをしたり、情報交換をしたりします。こういったことは、それまでのわたしたちの生活が大きく忘れてしまっていたことのように思います。
「日ごろの私たちが忘れてしまっていたこと」で思い出しましたが、こんなことがありました。震災のあった夜、うちのカミサンが空を見上げて言ってました。
「雲ひとつない夜空全部を覆い尽くした星が綺麗で、今にも降って来そうな、怖い感じがする……」「天変地異のあるときにはそんな風だって聞いたことがあるけど、不吉なことの前兆なのかしら……」
よく考えてみたら、仙台市全域が停電でそのせいで星が綺麗に見えているだけなのです。

近くのバス停で降り(近くといっても、再開したバスルートの関係で20分ほど歩かなければいけないのですが)、雪道を歩いていると、ガソリン不足のせいで車がまったく走っていない雪道は、シンと静まり返って、本当に幻想的で綺麗でした。
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こういうときこそ、日々のことを淡々と丁寧に綴ってゆかなければなりませんね。
手島

posted by JIAみやぎ at 07:31| Comment(1) | TrackBack(0) | 東日本大震災関連

2011年03月10日

納谷建築設計事務所よりオープンハウスのお知らせ

納谷建築設計事務所より「仙台の住宅」オープンハウスのお知らせ

2011年3月11日に発生した震災により、開催を中止、または延期いたします。

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日時 :2011年3月19日(土)11:00~16:00
交通 :JR仙山線  国見駅より徒歩3分
問合e-mail :kawasaki@naya1993.com

上記メールにて担当谷山宛てにお申し込みいただいた方に、現地案内図をお送りいたします。


用途:個人住宅
規模:地上2階
構造:木造
敷地面積:142.23u
建築面積:58.41u
延床面積:87.63u

納谷建築設計事務所
〒211-0002
神奈川県川崎市中原区上丸子山王町2-1376-1F
TEL:044-411-7934
FAX:044-411-7935
e-mail:kawasaki@naya1993.com
URL:http://www.naya1993.com/
posted by JIAみやぎ at 15:37| Comment(0) | TrackBack(0) | オープンハウス情報

「第5回JIA東北住宅大賞2010」結果発表 

昨日、現地審査を終えた「第5回JIA東北住宅大賞2010」の結果が発表されました!!

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大賞: 「横手の家  雪国の中庭住宅」
  所在地:秋田県横手市旭川
  設計者:木曽 善元(木曽善元建築工房)
  施 主:山本紀昌・尚子
  施工者:(有)佐々木工務店

一時審査の際、このパネルを見た途端に、「嗚呼!今年はこれに負けてしまうなぁ」と直感したのですが、そんな取り越し苦労の甲斐もなく、わたしはあえなく一時審査で敗退してしまいました(苦笑)。
しかし本当に良い作品だと思います。
このパネルだけを見て、あるひとに「アアルトっぽくってすごく面白そうな予感がする」と言うと、実際に見学したMさんは、「アアルトっぽくはないけど、すごくいい」って言ってました。ちなみにMさんも、一次審査の会場でこのパネルと見たときに「やられた!」と思ったそうです。

「受賞記念の見学会」か何かをしてもらえないかなぁ……。
来年からはそんな企画はどうでしょうか?
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posted by JIAみやぎ at 15:20| Comment(0) | TrackBack(0) | おめでとうございます!!

2011年03月07日

建築家職能運動120年奮闘記 vol22

 妻木頼黄らの一行20名がドイツへ渡るのと前後して、ドイツからは、エンデ&ベックマンをはじめとして、ベルリン都市計画の父といわれる都市計画家のジェームス・ホープレヒト、建築家のヘルマン・ムテジウスやリヒャルド・ゼール、さらには専門技術者等、総勢12人が来日します。明治政府がひとつの事業にこれほどの人々を招聘し、また派遣した例は他にないといわれています。それほどこの計画は、国家の威信をかけたものだったのだといえます。  
 そしてエンデ&ベックマンは、1886年(明治19年)、築地本願寺あたりから霞ヶ関の丘に向かう一直線の都市軸を背骨とする、官庁集中計画ベックマン案を提出します。その頃ベルリンのエンデ&ベックマン建築事務所では、妻木が国会議事堂、渡辺が裁判所、河合が司法省の担当スタッフとして設計に没頭していました。

2011年02月28日

建築家職能運動120年奮闘記 vol21

 妻木頼黄は、幕臣旗本の妻木家の長男として江戸に生まれ、17歳で家屋敷を売り渡米しますが、1878年(明治11年)日本に呼び戻され、工部大学校に入学しました。辰野の5年後輩というわけです。造家学科でコンドルに学びましたが4年で中退、再度渡米します。その後コーネル大学で学士号を取得し、1885年(明治18年)帰国しました。
 翌年、妻木は官庁集中計画の中心である国会議事堂建設の担当として臨時建築局に入り、議院建築の研究のために、渡辺譲(工部大学校2期生)、河合浩蔵(同4期生)ら2人の建築家と、大工をはじめとする各専門職人達20名と共にドイツに渡ります。そして妻木、渡辺、河合の3人の建築家達は、ベルリン工科大学でドイツの建築学を学びながら、エンデ&ベックマン建築事務所でドラフトマンとして働き、建築家としての腕を磨きます。また職人達も、昼はそれぞれの専門の工場や現場で働き、夜は夜学へ通いドイツの優れた建築技術を学んだのです。

松本 純一郎

2011年02月22日

東北新幹線 E5系「はやぶさ」特別試乗会

ようやくウツを脱却。アニアルレポートもあるし…
さて、妹の代理にて(このネタばっかり)、試乗会に参加。

2月19日 8:38大宮→9:48仙台 10:14仙台→11:35大宮

なんか素敵でしょう。関東圏向けの招待状。ついノッテシマウ自分。

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大宮駅。このセンス、好きです        倍率60とも云われる乗車券

期待を胸にホームに向かう。

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鉄チャンの血が…              団体なんだ

ついにご対面。

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係員より、『後でゆっくり撮影できますので、ご乗車ください』と促され、車中の人に。
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天井がなんとなく気に入る  車椅子対応トイレ   扉を開けると

車内放送。JR東日本常務の挨拶、「はやぶさ」のコンセプト、性能の説明等の後、宇都宮付近から300km走行になるとのこと。而して「ただ今より300km走行に入ります。現在280km。…285km。…290km。…295km。…300kmになりました。国内最高速度…」と聞きながら、このワクワク感、久しく感じていなかったなあ、大阪万博で初めて乗った東海道新幹線0系のビュッフェにあった速度計の針に見入っていた自分を思い出していました。暫くしてグランクラス見学。グリーン車に一旦待機。

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右上に座面のLED読書灯が写る        グリーン車席トレー。

ついにグランクラスへ。
グリーンを含め、まあ来ない場所なんだろうなあ、と思いつつ、見学。
通路にビニール敷いてるし、シートは電源切っていて動かせないし、体感せず退去。
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グランクラス内部              この色いいなあ

さて、仙台着。他の乗客は仙台土産を物色するも、私は喫煙所にて一服。仙台にて実感したこと。「はやぶさ」は鼻が長いので、1号車は引きが無く、駅内では10号車が撮影楽。
最後にお土産。

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お土産。車中にて              写真立。吉永さん綺麗

横山 芳一
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2011年02月21日

建築家職能運動120年奮闘記 S

 井上は、最初にこの官庁集中計画の案を依頼したコンドルの地味な提案に満足できず、またまたRIBAに助けを求めました。しかし当時のRIBAの事務局長を務めていたW・H・ホワイトはボアンビルの先生で、ボアンビルやコンドルを大切にしない日本政府に不信感を持っていたのか、体よく断られてしまいます。仕方なく井上は、普仏戦争に勝って意気あがる新興ドイツを頼り、当時ドイツの建築界を代表するヘルマン・エンデとウィルヒルム・ベックマンを紹介され、エンデ&ベックマン建築事務所に計画を依頼します。
 一方、国内では1886年(明治19年)内閣直属の組織として「臨時建築局」を創設し、自ら総裁を兼務、三島を副総裁に就任させます。そして、当時27歳の建築家松ヶ崎万長が臨時建築局初代の建築部長に抜擢されるのです。松ヶ崎は辰野の6歳年下、公家出身の建築家で唯一男爵の爵位を持つ、いわば身分の高い人でした。1871年(明治4年)岩倉遣欧使節団に加わりベルリンに留学、ベルリン工科大学で建築を学び1884年(明治17年)帰国したばかりでした。そして、後に官僚建築家のシンボル的存在となり、辰野のライバルとなる妻木頼黄らが、松ヶアの部下として集められたのです。

松本 純一郎

2011年02月20日

アンダー40セミナー体験記

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先日行われた「アンダー40セミナー in仙台」に行ってまいりました!
基調講演は非常に刺激的な内容でしたが、日常業務に忙殺され、今日の日曜日も久し振りの休日をとって、この内容をUPしようと思っていましたが……、結局溜まりに溜まった仕事をこなす羽目になり、仕事と仕事の合間には、行かなければと思いつつ、行けなかった知人のお見舞いで病院めぐりをし、……せっかくの内容をここに書き写す気力が残っていません…。本当に申し訳ありません!!!ああ、残念です!

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…しかし、疲れた……
(mm)
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2011年02月14日

建築家職能運動120年奮闘記 R

 一方、外務卿の井上馨の「官庁集中計画」をきっかけに、妻木頼黄を中心とするドイツ派が、臨時建築局を活動の場として活躍し始めるのもちょうどこの頃でした。
 1885年(明治18年)井上馨は、当時警視総監だった三島通庸と組んで日比谷から霞ヶ関一帯に国会議事堂、各省庁、最高裁判所等の官庁を集中し、東京中心部を鹿鳴館と化す「官庁集中計画」を発表します。外務卿が都市計画の主導権をとったのは、欧米諸国から近代国家として認められ、幕末に結ばれた不平等条約を改正するという大きな目的があったからでした。
 井上は以前に銀座煉瓦街計画を始動した経験があり、三島は初代山形県令として最初の山形県庁(明治44年の大火で明治16年竣工の議事堂とともに類焼した)を建設し、県庁前に擬洋風のストリートを完成させた実績を持っていました。このように建築の発するメッセージによる政治的効果をよく知っていた二人によって、この壮大な計画が始まったのです。

松本 純一郎

2011年02月11日

「宮城県看護協会会館・看護研修センター」建築見学会と、建築批評会

少し遅くなりましたが、『「宮城県看護協会会館・看護研修センター」の建築見学会と建築批評会』のご報告です。
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2011年02月07日

建築家職能運動120年奮闘記 Q

 工部大学校造家学科が1885年(明治18年)までに世に送り出した21名の卒業生と、工部大学校を中退して、あるいは他のコースから留学し欧米で学んだ4名の建築家達が、後に日本の第一世代の建築家と呼ばれる人々です。
 当時、世界の建築界をリードしていたのはイギリス、フランス、ドイツの3国でした。アメリカは、地力は付けつつあったが前面に出るにはまだ時間が必要だったようです。このような世界の状況はそのまま日本にも反映されて、第一世代の建築家達は、それぞれがおかれた立場や偶然に左右されながら、手分けするように、これら三国の建築様式の習得に励んだのです。彼らはその学んだ国によって、イギリス派、フランス派、ドイツ派と呼ばれることになります。
 そのなかで、建築家の職能確立に貢献したのは勿論イギリス派であり、その中心を担ったのがコンドルの教え子達でした。当時イギリス派として活躍したのは、辰野金吾、曾禰達蔵、佐立七次郎(以上一期生)、藤本寿吉(2期生)、久留正道(3期生)、新家孝正(4期生)、滝大吉(5期生)などで、とりわけ屋台骨を支えたのが辰野と曾禰の二人だったのです。

松本 純一郎

2011年02月04日

大物建築家の育児

また今年も年度末卒業のシーズンが迫ってまいりました。
年度末にひとつの区切りのある公共工事と違い、特にこれといった節目のない民間の建物の設計監理を生業としている身にとっては、そういった季節感は、いつの間にか縁遠い存在になってしまっていました。

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しかし、今年の年度末は、卒業のシーズンが近づきつつあることが、我が身のこと以上に、心に迫って来ます。
この春に、うちの次女が保育所を「卒所」するのです。
長女の時から数えて7年ですか、当たり前のように日常生活の中での拠点となっていた保育所に、この春から通わなくなってしまうのです。私自身は「育児する父親」としてずっと優等生ではなかったので、毎日送り迎えをしていたわけではありません。カミサンの不測を補うように送り迎えをする、という感じですかね。しかし、長女が保育所に通っていたころは、わたしが毎日保育所に連れて行っていました。車の中で、こどもと変な替え歌を大声で歌いながら……、です。
そういうこともあって、私自身が何か大切な時期を卒業してしまうようで、妙に神妙な心持になってしまうのです。
あのころは、母親と引き離されて泣き叫ぶ子供をどうあやしていいかも分からず、こどもの気を紛らわせるために、変な歌を意味も無く大声で歌っていたんです。

保育所の送迎といえば、こんなことを思い出しました。
私が最初に丁稚奉公をしてお世話になった建築家は、毎朝こどもを保育所に送っていっていました。
彼の奥さんも建築家で、別々に事務所を開設していたのですが、奥さんは朝4時に起きてすぐに仕事に掛かって夕方まで仕事をし、保育所にこどもを迎えに行って夕飯を食べさせ、こどもと一緒に9時には就寝していたそうです。私の師匠は、奥さんと入れ替わって、朝9時に起きこどもに朝食を食べさせ、保育所に送ってから10時半に事務所に来ていました。その夫婦の育児ローテーションのせいもあって彼の事務所は10時半の始業でしたが、夜は終電過ぎまで仕事を続けていました。
まるで、子供をバトンにしてリレーを繰り返す駅伝のような暮らしですよねぇ。奥さんと私の師匠は決して併走することなく、自分に与えられた区間を一生懸命走り抜けるのですから……。

いまや日本を代表する建築家のひとりとなったその建築家のパブリックイメージからすると、とてもそんなことをするひとには見えないのですが、とにかく毎日続けていました。5歳違い(?)の妹さんもいたので、十年以上そうしていた筈です。

私の師匠は、「小説家で言うと遅筆」というヤツで、延々と考え続け、ずーっと考え続け、それでも全く結論を出さず、工事に入ってからも考え続け、そして着工したときからは全く違うものが出来上がっている、というスタイルの建築家です(笑)。
悪く言うと優柔不断で、決断できないタイプで、晴れやかな結論が出ずにいつも鬱々と考え込んでいる感じの人間なのですが、数年前にあった還暦祝いの席で、
「そういえば、○○さん(その建築家の名前です)、毎朝、保育所の送迎をやってましたねぇ。ボクも毎朝、本当に大変で、大変で、…」と愚痴をこぼしかけていたところ、

その建築家は、私がいままで見たことのないような自信に溢れた笑顔を見せ、にかっと笑ってこう言いました。
「俺はやったよ!!!」
多分、彼には保育所の送迎に関しては、誰に羞じることもない完全無欠の達成感があるのでしょう。
その晴れやかな表情には、ちょっとびっくりしました。
建築では「途中」感溢れる師匠「○○サン」の、建築を介しては絶対に見れない、人間としての充足感が覗き見れた瞬間でありました。

(T)

……ここで私が記名してしまうと、当然、その大御所建築家が誰か分かってしまうので、伏せておきます(笑)
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2011年02月02日

設計教育のアマチュア

さて、今日の話題も先日お話した二年生の設計課題の非常勤講師のことです。
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二ヶ月に渡るエスキスを終了し、先日、最終講評会なるものに出掛けてきました。
私が非常勤講師として参加している某大学の設計課題では、二年生五十数人について三人の講師がつき、一人当たり二十人弱の学生を受け持つことになっています。設計課題の設定は、大きく「住宅」というくくりはあるものの、それ以外のことはすべてそれぞれの講師に任されています。三人の講師がそれぞれ、趣向を凝らして、学生の教育上有効だと考える課題を設定するのですが、これがまた、悩みどころなのです。
設計教育のプロでない私が、どんな課題が大学二年生にとって教育上有効か、幾ら考えたって思い浮かぶわけがありません。二十年前の無知な自分がどんな学生でどんなことを考えていたのか、二十年前の無知な自分にもっとも望ましい教育は何か……。

去年の課題では、できるだけ自由に考えさせてあげようと考え、敷地の設定も曖昧にし「仙台市の西公園の何処にでも自分の好きな住宅を建ててよし!!」という課題にしました。
その課題が良い課題だったのかどうか自分でもよく分かりませんが、課題を終えてみると、自分の中にどうにも「後味の悪い感じ」が残ってしまいました。
結局、学生が相手だとは言え、人の作ったものにあーだ、こーだ、とコメントを付けているのが、どうにも自分の性に合わず、居心地が悪いのです。居心地が悪いだけならまだしも、本当であれば、はっきりと「良い」「悪い」を学生に言ってやらなければならない立場であるにも係わらず、それが言い辛い気持ちになってしまうのです。その点をとっても、私は教育のプロにはなれないなぁ、と思ってしまいました。こう見えても、去年はけっこう凹んでいたんです。

そんなこともあり、どんな設計課題がふさわしいかについてはかなり思案しました。それは「建築初心者である大学二年生にとってふさわしい課題は何か」ということでもあり、もうひとつ更に重要なことは、「設計教育のプロでない講師にとってふさわしい課題設定は何か」ということでもありました。

結局、課題はこうしました。
そのとき、私の事務所で進めている住宅の基本設計の終了時期が、設計課題の提出時期と、ちょうど重なりそうでした。その敷地と、クライアントのプロフィール、要望をそのまま設計課題に設定することにしたのです。
学生たちと私の事務所で、同じ課題を対等な条件で設計を進めて行き、最後の課題提出の際には、私も学生と同じように「どう課題を解いて、どんな設計になったか」を発表します。
最初の課題の説明時には、学生にはこう言って置きました。
「君たちには、最後に、私の設計した住宅(の模型)を指差して『あのおっさん、偉そうなこと言った割には、ダサい』と言える機会をあげよう。言える度胸があるヤツは、それだけで評価してやる。お互いに自分の空想して良いと信じた建築を前にして、対等に喧嘩しよう!」

そんな課題の効果はテキメンでしたね。
もちろん「設計教育のアマチュア」である自分にとって、です(笑)。学生にとって、どうだったかは知りません……。
私は、学生のやってきた模型やスケッチを前にして、好きなことを思いっきり言う事が出来ました。

結局、「建築家」であり「建築の作家」である自分には、一般的なことは言えないんですよ。自分の立っている場所を定めて、今作っている手の感触からしか、何も言えないんです。それが本当に学生のためになっているかどうかは、自分には分かりません。

最終講評会の席で、居並ぶ設計教育のプロたち(大学の先生方)の学生の発表に対する積極的で的確な発言を聞いていると「やはりプロだなぁ、これの真似をしようとしても、敵うわけがないなぁ」と思い知らされる気がしました……。
手島
posted by JIAみやぎ at 18:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 建築雑記

2011年02月01日

建築家職能運動120年奮闘記 P

 1884年(明治17年)、コンドルの契約期限が切れると辰野が造家学科教授となります。ここに造家学科初の日本人教授が誕生したのです。
 助教授だった曾禰は、コンドルと一緒にその職を辞することを前もって辰野に告げていました。当時工部大学校の卒業生が中心となって発足していた「工学会」の機関誌の委員をしていた曾禰は、イギリスの建築事情の寄稿を頼むため、辰野の帰国後初めて辰野を訪ねます。その折、彼は工部省での仕事への不満からコンドルに助手にしてほしいと手紙を書いたことや、当然、辰野がコンドルの跡を継ぎ教授になるべきであるという彼の考えを伝えていたのです。そして彼はコンドル退職と同時に助教授を辞し工部省営繕課に戻ることになりました。
 教授の席をめぐって一時、多少ぎくしゃくした二人の友情は、これを機にさらに強固なものとなりました。そして西欧のアーキテクト像の深い理解者だった二人は、日本における初期の建築家職能確立運動の中心的存在として協力し合うことになるのです。

松本 純一郎

2011年01月26日

いい建築ってなんですか?

最近、柄にも合わず、大学の「非常勤講師」なるものを引き受けてしまっております……。
内容は大学二年生の「設計製図」です。

今までは、こういった仕事や外に出て喋ること機会など、自分の設計以外の仕事はあまり積極的に引き受けることはしませんでした。なにせ、いったん引き篭もり始めると極度の面倒臭がりに成り下がってしまい、自分の設計以外のことは、本当にやりたくなくなってしまうんです……。挙句の果てについうっかり「大切なお時間をドタキャン」してしまうのではないかと、自分で自分が怖いんです…(笑)
……冗談はさておき、こう見えても学生のころまでは社交的で人前で喋るのは得意な方だったので、「人前でちゃらちゃら喋るのなんか、簡単なこと! ちょろい仕事なんか、やる気ゼロ」と高をくくっていたのです。
ところが、数年前から、どうしても人前に出て喋らざるを得ない場面も増え、やむを得ず出掛けてみると、イメージに反して、殆ど喋ることが出来ません。中途半端な自信があるのも災いして、最低限の準備さえもロクスッポして行かなかったんです。
何回かの挫折を繰り返し、「この欠点は数をこなして克服するしかない」と決意して、今「苦難の道行の真っ最中」って感じなんです。お話はすべてふたつ返事でお引き受けしております(笑)

というわけで、この設計製図の非常勤講師も引き受けてしまっているのですが、やってみると、これもまた生半可なもんじゃありません!!
設計も専門のプロじゃなければ、やっちゃマズイんでしょうけど、この「教える」ってことに関してもその筋の専門家でなければ、とてもじゃないですが理想に適うもんじゃありません。(と、思います)

しかし、まぁ、引き受けてしまったからには、とにかく一生懸命に自分が今まで学び取ったものを伝えようと思って奮闘しています。私が引き受けた課題は、彼らにとってふたつ目の設計課題であり、ということは建築設計に触れて「二、三ヶ月目」ってことです。そのころの自分がどうだったかなんて、どうあがいても思い出せません。「あ!こんなことも分かっているんだぁ」と思う瞬間もあれば、「二年生って、こんなことも知らなかったっけ」と思う場面も多々あり……、私としては、彼らの作ってきた模型や、説明する言葉に一生懸命、自分の思うままを「出来るだけ手加減せず(しかも分かりやすく)」喋っているつもりなんですが、
……自分の喋っている言葉がどの程度彼らに聞こえているのか、本当に自信がないんです。

ちなみに、この「自分の思うままを、出来るだけ手加減せず」が、一番重要だと、私自身は肝に銘じています。というのも、もし、設計を専業にしているものでなければ実感できない感覚に基づかず、建築設計についての一般的な物事に基づいて設計の指導を行うのであれば、私なんかよりも(大学の先生はもちろんのこと)大学院生や院卒の実務修行中の連中のほうがずっとうまく指導できる筈です。当然彼らは学生に推奨される設計について熟知していますし、学生の気持ちを分かってやれる、という意味も含めて、わたしたちよりずっと適任だと思います。

(教育のプロでもないくせに)わたしたちのようなものがつたない言葉で学生に接しているメリットは、ひとつだけ、だと思うのです。決して設計実務の感覚から離れずに、『(分かった風な)「建築設計的なもの」的な視点』に堕ちずに、建築家が本心から感じたことだけを伝えること、です。分かった風なことであれば、学生にでも、大学院生にでも言えます。少なくともそれとは一線を画し、「まじりっけのない」本当の言葉だけを喋ろう、伝わる・伝わらないに拘わらず、と考えているわけです。そうでなければ、教育のプロでもないわたしたち建築家が学生に何を教えるんでしょう?

というわけで、出来るだけやさしい言葉を選びつつも「内容に決して手を抜くまい」と決意しているわたしの言葉を、学生たちにどう聞こえているのか、本当に自信がないんです。

先日の「エスキス(学生の作業してきたものを個別指導することの建築用語です)」でもこんなやりとりがありました。

「先生。『いい設計』ってなんですか?」
彼は、ツカツカと早足で歩み寄ってきて、目の前に立ちはだかり見下ろして、言います。
急なことで、びっくりしていると、
「『いい設計』って、誰が決めるんですか? 先生が決めるんですか?」
彼は建築に憧れ、意気込んで建築学科に入学したものの、自分の思っていた世界と食い違っていることに戸惑い苛立っているんじゃないかと、思いました。もしかすると、最初の課題(このひとつ前の課題)では、思うような評価が先生から得られず、納得し切れていないのかもしれません。何かに対する不満と苛立ちが彼から溢れているような気がしました。

「『いい設計』ってなんですか?」
思い出してみると、学生のころの私も先生方にその質問をしまくっていました。
いろんな先生が本当に親切に、時に難しい言葉を並べて、時に数式らしきものを並べて(!)、『いい設計』について教えてくれました。いま思い返すと、親切にも先生がたが語ってくれた答えは「ある意味で」全て間違いでしたね(笑)。
大学を出て就職し、当時有名な建築家にも同じ質問をしたところ、即座にもっとも適切な答えをくれました。
「そんなこと、誰にも分かるわけ無いじゃないか!!!だから、誰もが必死で努力してんだろ!!『いい設計は何か?』の答えが分かったら、誰もこんなめんどくさい仕事しないよ!!」
……ある意味で「目からウロコ」でしたが、元も子もない、って感じです。その時には納得し切れませんでしたが、少なくとも、もうこんな質問をするのは止めよう、っていう気になりました(笑)
その時には、なんて面白みのない、知的でない答えだろう、と思ったのですが、今となってみると自分の本心を包み隠さず言ってくれた答えは、アレだけでした。教育の専門家である先生たちと、今まさにその問題に挑んでいる建築家では答えが違って当然です。「平和とは何か」って弟子たちに教え諭す宗教家と平和を勝ち取るために奮闘する平和活動家では、まるで違うでしょう。
私は答えを求める学生に、こういう言葉を返してやりたいんです。

今の私だとこう言います。

『いい設計は何か?』って質問に、答えられる建築家はひとりもいないよ。何千年前から今までもひとりもいなかったし、これから先にどんな大天才が出てきても、絶対に答えられないと思う。
でも、もし誰かが『いい設計』をしたら、それは誰から見ても『いい設計』なんだよ。
それが、建築がただの単なる技術じゃなくって、芸術であることの証拠でもあるんだよ。
……ちょっとしたきっかけで、ひょんなことから『いい設計』が生まれると、同時代のみんなから、「あれはいい建築だねぇ」っていわれるし、千年前の建築家が見てもそれを『いい設計』だって言う。千年後の建築家が見たって『いい設計』だって言うんだよ。千年後の建築家から見ると今の技術なんか稚拙でお話にならなくても、それは単に技術の話だけであって、『いい設計』っていう評価は変わらないと思うよ……。これは建築に限らず芸術としての要素を持つ営みのすべてについて、言えることだけどさ。

ただ、分かるようになるまでちょっとだけ努力が要る。
音楽だって、同じでしょ。
赤ちゃんの時に喜んで聴いていた歌じゃぁ物足りなくなって歌謡曲を聴き始め、歌謡曲が馬鹿馬鹿しくなって、クラッシックを聴いたり、ロックを聴いたり、ジャズを聴いたり……、いつの間にか『聴き方』を勉強しているんだよ。建築も『見方』を習得するまでに少しだけ努力が要る。それが分かれば私の言うことが理解できるはずだよ。
それが分かるまでのもう少しのあいだ、黙って勉強しなさい!!
そうすれば、あなたも千年前の建築家の横に並んで、「あの建築はいい」「この建築のここはいただけないよねぇ」って言い合えるようになるんだよ。

「わかりました」って小さく答えて、ぷいっとむこうを向いちゃったけど、20年後に何か気付いてくれればいいかなぁ、と、思うわけです。

(月)
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2011年01月24日

建築家職能運動120年奮闘記 O

 先週は、建築基本法研究会の韓国事例調査に団長として参加していたので、連載を休んでしまい申し訳ありませんでした。ソウル訪問は大変充実した旅となりました。何かの機会に皆さんにご報告したいと思っています。

 さて、辰野は、僅か半年間でしたがこのイギリスの高名な建築家の事務所で学んだことを生涯の誇りとしていました。そして「アーキテクトにとって最も大事なことは、文化を愛し文化を考えることだ。そのためには様々な国の建築やまちを実際に見ることだ。」という彼の言葉に忠実に従い、最後の一年間は家庭教師を雇い語学を学びながら、パリをはじめとするヨーロッパの各都市の視察に費やしました。(うらやましい!)その記録は「洋行日誌」と写生帖5冊、700を超える建築のスケッチに残されています。
 そして1883年(明治16年)辰野は帰国します。留学前の予定ではコンドルに代わって工部大学校の教授に就任するはずでしたが、コンドルの任期が残っていたため工部省技師となり、最初の作品となる銀行集会所の設計にあたることになりました。その依頼主は、当時第一国立銀行の頭取だった渋沢栄一でした。渋沢は民間にいながらも東京の都市計画にも興味を持ち、様々な構想を考えていました。この出逢いが後の日本銀行本店の設計にも繋がることになるのです。
 一方曾禰は、1881年(明治14年)工部省技師を辞し、自ら望んでコンドルの助手として工部大学校の助教授となっていました。
松本 純一郎

2011年01月18日

「八幡木窟 -Hachiman wood cave-」オープンハウス!

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「八幡木窟 -Hachiman wood cave-」オープンハウス!

2011年1月29日(土)30(日)
住所:仙台市青葉区
設計:株式会社 建築工房DADA 佐藤 充

  ……入場無料ですが、予約制です。

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2011年01月15日

「SAU+展2011」に行ってきました!!

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明日・日曜日まで、せんだいメディアテークにて開催中の「SAU+展2011」に行ってきました。
私は去年も見学に出掛けたのですが、今回は前回よりもはるかにパワーアップしていました。
それぞれの事務所がそれぞれのブースで好きな展示を思いっ切りやっているのですが、それが却ってすごく面白かったです。
統一感にこだわらなかったところが、勝因であるような、かんじです。

せっかく見応えのある展示なのに、同業者の来場は少ないようです…、ああもったいない!!
このあと簡単にレポートしますが、もしお時間がある方は、是非見に出かけてください。


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2011年01月14日

「宮城県看護協会会館・看護研修センター」建築批評会のお知らせ

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 2011年 2月3日(水)、関・空間設計による「宮城県看護協会会館・看護研修センター」の「建築見学会」と、「建築批評会」が開催されます。

奮ってご参加ください!!

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2011年01月13日

小堀遠州巡り・備中高梁編

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さて、小堀遠州・備中高梁編です。
年の瀬が迫る中、雪混じりに曇り空を憂いながら行ってまいりました。
先ずは「備中松山城」です。

詳しい説明はWIKIPEDIAをご覧いただくとして、何年か前に、日曜美術館か何かの「小堀遠州」の回の際に、番組で紹介されていました。残念ながら、私が目にしたのはこの間の数分だけで、番組を見たわけではありません。

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2011年01月11日

SAU+ 建築作品展2011

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SAU+ 建築作品展2011
   −東北の住宅が変わるvol.3−


2011年 1月 12日 (水曜日) 14時00分 〜 1月 16日 (日曜日) 20時00分
場所 せんだいメディアテーク   入場無料

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posted by JIAみやぎ at 14:58| Comment(0) | TrackBack(0) | その他もろもろの告知

建築家職能120年奮闘記 N

 2月に横浜を旅立った辰野らの留学生の一行が、香港、シンガポール、そしてインド洋からスエズ運河を渡り、地中海に入りマルセイユ港に到着した後、汽車でパリからロンドンに着いたのは約一ヶ月半後でした。
 辰野は早速ロンドン大学を訪問し、RIBAの会長も務めた英国建築界の大物でコンドルの従兄、そして恩師でもあるロジャー・スミス教授に会います。彼のアドバイスのもと、ロンドン大学の講義が始まるまでの半年間、日中はキューピット建設会社での実習、夜はロンドン大学の夜間講座の聴講と、西欧の近代的知識を貪欲に吸収しようと頑張ります。そして10月、いよいよ新しい学期が始まってからは日中の講義に加え、夜はコンドルがロンドン大学卒業後働いていたウィリアム・バージェス建築設計事務所でアーキテクトになるための修業に励むことになりました。
 そんな無我夢中の生活のなかで、辰野がスミス教授やウィリアム・バージェスから学んだのは、近代的な工学技術以上に建築における文化的要素の重要性でした。現在、東京大学には彼が持ち帰ったロンドン大学の試験用紙が残っています。それは「建築において国民的な様式を形成するにあずかる影響力のいくつかを指摘せよ。その好例を残した古代と現代の主な国民と民族を指摘せよ。それぞれの様式とおおよその最盛期と有名な実例を述べよ」というものです。
 「建築は土木技術とは違ってその国固有の文化と深く結びついている。従って西洋の建築様式をそのまま移し替えることは不可能である。近代化を進め、欧米の工学技術を学ぶのはよいが、建築というのはあくまで自らの文化や歴史に基づいたものでなければならない」というのが彼らの言わんとするところでした。
松本 純一郎

2011年01月10日

閑話休題・奈良巡り(下)

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さて、奈良巡業のつづきです。
前回、東大寺を巡りましたが、悩んだ挙句に法隆寺に行くことにしました。法隆寺は小学校の修学旅行以来30年ぶりでしたが、「こんなに大きかたっけ!」と唖然としてしまいました。記憶にある法隆寺の周りの街区にも関連施設が大路をはさんで軒を連ねており、さながらひとつのテーマパークのようでした。

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posted by JIAみやぎ at 14:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 建築雑記

閑話休題の中の「閑話休題」

なんか、「男の中の男」って感じで男らしいタイトルになってしまいました、っすね!
ウッス!!
つまるところ、「サボりの中のサボり」ってことです。小堀遠州めぐりの最中で、ふとした出来心から奈良へと寄り道し、その途中でふと「寄り道に逸れて考え込んでしまったこと」についての雑記です。決して膨大な数の写真を整理することに疲れ果ててしまっているわけではございません……(笑)
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京都から奈良を巡る道中、というか、最近古い建築を巡るたびに、その疑問がずっと、頭の中で浮かんでは消え、しています。
「なんで古い建築を見て回るのか?」
「古い建築を見て回って、何が、どう、良いことがあるのか?」
ひとから、同じように訊かれることもあるのですが、そのたびに答えに窮してしまい、みっともない思いをしてしまっているので、このあたりで一発奮起して、まじめに考えてみようと思います。

まず最初に断っておきますが、わたしは基本的に「歴史的建築マニア」ではありません。
「古建築の保存運動」になどさして興味もなく、そういう「古建築の王道」を行く方々からは邪道扱いされるような、そんな感じの存在なんだと思います、きっと。
そしてまた、わたしは歴史研究者でも歴史マニアでもなく、建築を作る側(建築家)なのですが、いわゆる「古い建築を参照してつくる」タイプの建築家ではありません。

建築家にはいくつかのタイプがあり、そのひとつに、日本の伝統的な空間構成にのっとり、ひとが心地よくなる適材適所に素材を選択し、人の心の記憶をうまく慰撫する建築を創る建築家たちがいます。そのタイプの建築家であれば、古い建築を見て勉強し、それをすぐに次の仕事に活かすことが出来るでしょう。
しかし、わたしはそういったタイプの建築家ではありません。直接的に、見て回った「古建築を作品に活かそう!」とは、あまり思っていません……。

「建築巡りを作品に活かそう!」つながりで、もうひとつ脇道に逸れて、お話しすると……、
十年以上前に、「とにかく建築の勉強をし直そう」と心に決めて現代の建築ばかりを何年も掛けてやたらと見て廻ったことがあります。実際の仕事に活かそうとの下心全開で走り回ったのですが、いま思い返すと、アレは本当に「役に立たなかった」ですね!
いま思うと「即物的な欲」が強すぎて、あんなんじゃぁ、何も身に付くわけがありません……(苦笑) 当然ながら、勉強も、建築という創作も、もっと無心でやるべきですね。

話が逸れに逸れて、自分が一体何を言いたくて筆を起こしたのかよく分からなくなってきましたが(笑)、無理やり話を戻します。
さて、じゃぁ、建築ヲタクでも和風モダン的建築家でもないわたしが、何故にして古い建築を見て廻ろうと思うのか?

……なんだか、話も長くなりそうなので、つづきが読みたい方は、下をクリックしてください……。脇道に逸れてばっかりですね(苦笑)

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posted by JIAみやぎ at 09:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 建築雑記

2011年01月08日

閑話休題・奈良巡り(上)

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「小堀遠州巡り」を企て、京都で二日を費やす旅程を考えていたのですが、ふと思いつき、二日目は奈良に行くことにしました。
「こどもにでっかい大仏を見せてやろう」との建前ですが、なんだか重源に吸い寄せられているような……。

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posted by JIAみやぎ at 19:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 建築雑記

2011年01月04日

建築家職能運動120年奮闘記 M

 あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願い致します。
さて、辰野と共に第一期生として造家学科を卒業し、造家学士となった曾禰、片山、佐立らは皆、工部省に入省しました。曾禰27歳、片山25歳、佐立23歳のことです。
 工部大学校は官費によって運営され、授業料は無料、しかも小遣いまで支給されたそうですが、そのかわりに卒業後7年間は工部省に奉職することが義務づけられていたのです。
 このように、西欧建築の教育を受けることによって我が国初の建築家が誕生したとはいえ、その立場は西欧のアーキテクトのそれとは異なったものであったといわざるを得ません。その立場は時代が彼らに要請したものでした。
 彼らはまず外国人建築家に代わって、国家のための建築物を洋風建築によって実現する使命を負わされていました。政府の営繕機構に身を置き、西欧建築の指導監督をするという、まさに開拓者としての大きな役割を担っていたのです。しかも洋風建築に対してはまだまだ未熟な技術者や職人、前近代的な建設業界、劣悪な建設材料等未発達な建築界のあらゆる問題に立ち向かわなければならず、その仕事は建築家の仕事を超えた広範なものでした。
 職能という点から見れば、クライアントは国であり、自らは国に仕える官僚という立場であり、施工者との関係は官と民の主従関係ということで、西欧的なプロフェッションとしての自覚を持てなかったのは当然だったのではないでしょうか。

松本 純一郎

2011年01月01日

小堀遠州巡り京都編(後編)

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皆様、明けましておめでとうございます。

前回に引き続き、小堀遠州巡り京都編の後編をお送りいたします。前半では金地院庭園と南禅寺方丈を巡りましたが、ちょうど近くに銀閣寺があり、その庭と何がどう違うのか、気になったので、そちらも廻って来ました。
結果として、何がどう違うのかは全く分からず仕舞いだったのですが、まぁ、写真だけでもご覧ください。

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posted by JIAみやぎ at 17:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 建築雑記

2010年12月31日

小堀遠州巡り京都編(前編)

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以前、「松純が語る『建築家職能運動120年奮闘記』」に発奮して、小堀遠州巡りをしようと思い立ったのですが、幾つかを巡って来たので、ご報告をいたします。

ここでご紹介するものの幾つかは以前に見たものもあったのですが、今回改めて見てみると小堀遠州の建築家・築庭家としての能力に改めてびっくりしました。庭とそれに面する建築空間の作り方だけで、これだけ面白がれるとは思ってもみませんでした。

ここからは、やたらと膨大な量の写真を掲載していますが、これでもかなり絞ったつもりです。しかしこれ以上絞ると、どうしても建築を見たときの感激を削いでしまいそうな気もして、悩むところでもあります……。

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posted by JIAみやぎ at 16:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 建築雑記