2012年07月09日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.35

 山尾庸三が臨時建築局総裁に就任した3か月後の1888年(明治21年)7月、日本銀行は臨時建築局に対し、本店設計者の推薦を依頼します。通貨価値の安定による近代国家への脱皮という重要な使命を担った日本銀行は、1882年(明治15年)に設立されていました。そして、その本店は海外の投資家にも信頼感を与えるような立派な建築が求められたのです。敷地は、官庁集中が計画されている霞が関、日比谷一帯から変更となり、渋沢栄一が提唱していた日本橋商業街計画地の一角に決まりました。
 山尾は早速辰野を訪ね、設計者として推薦することを伝えます。これまで、お雇い外国人建築家に頼らざるを得なかった国の重要建築物を、初めて日本人の建築家が手掛ける時がついにやってきたのです。その時の辰野の喜ぶ顔が目に浮かぶようですね。        
 そして1カ月後の8月には臨時建築局を辞め、岡田時太郎を伴って、銀行建築の調査のため欧米に向けて旅立ちました。
松本 純一郎

2012年07月02日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.34

 そのようななか、外務卿で臨時建築局総裁も兼ねていた日比谷官庁集中計画の推進役でもあった井上馨が、その極端な欧化政策を批判され1887年(明治20年)の9月に失脚してしまいます。そして翌年4月には、かつて工部卿として工部大学校を作った山尾庸三が臨時建築局総裁の後を継ぐことになります。
 山尾はエンデ&ベックマン建築事務所に依頼していた「官庁集中計画」の見直しを決意します。同時に、その時はまだベルリンのエンデ&ベックマン事務所にいた妻木の上司であった松ヶ崎万長を工事部長から解任して、その後任に自分と息の合った辰野金吾を当てたのです。
 以前にも話したように、思わぬ井上の失脚によって妻木らのドイツ派は力を弱め、辰野はヨーロッパから帰国後5年にして、工科大学教授であるとともに造家学会の重鎮、さらには国家の臨時建築局工事部長を兼ねるという、まさに日本の建築界の頂点に君臨することになったのです。
松本 純一郎

2012年06月30日

写真で見るJIA全国学生卒業設計コンクール2012

ちょっと古い先週末の話題ですが、本選の運営に参加してきました。
こちらの公式サイトもあわせてご覧ください。
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(写真をクリックするとスライドショーです)
今年は審査風景をUSTREAM配信する予定でした。しかし、なぜか3次審査が近づくにつれ映像がコマ送り。回線にもう少し力が必要なことが判り、断念。残念。午前中の貴重な配信をご覧になった方はいらっしゃいますか…?会場でスマートフォンからアクセスした委員だけだったかなぁ。
(H)
posted by JIAみやぎ at 19:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 建築雑記

2012年06月25日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.33

 造家学会の会合に、会社や自宅のスペースを提供した清水満之助は当時、清水店の3代目店主として近代建築請負業への飛躍を期し、優秀な技術者や設計者の社内への採用を進めていました。造家学会においては第一号の賛助会員となり、支援を惜しまなかったそうです。
 造家学会理事となった坂本復経が、学会設立の1886年(明治19年)、辰野の推薦で清水組に技師長として入社しています。また鳥居菊助も後に、日本土木会社に入社することになるといったように、建築施工会社も優秀な技術者や設計者を採用し、西洋建築移植という国家政策のなかで徐々に力をつけていくことになります。幸い1889年(明治22年)に制定された会計法によって、公共建築の設計施工一貫方式は法的に規制されたものの、建築界一丸となっての新しい国づくりのなかで、設計施工という日本独特の形態の基礎が形作られつつあったのです。
松本 純一郎

2012年06月18日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.32

 造家学会が創立された翌年1887年(明治20年)には、建築教育を総合的に行う、工部大学校に次ぐ二番目の建築教育機関となった工手学校(現工学院大学)が、技師と職人の間に介在する中堅の建築技術者を養成する学校として設立されています。
 政府の富国強兵政策による近代化を達成するために必要な職工の不足が深刻だったため、工学全般にわたって、現場を支える職人を育成するために工科大学教授陣が中心となって工手学校は設立されたのです。工学系8学科のうち造家学科は、辰野が設立運動の中心となり藤本寿吉(工科大学校2期生)も発起人となっています。煉瓦造など新しい建築技術を欧米から移植する役割も建築家に委ねられたといえるのです。
 国を挙げて西洋列強に劣らぬ国力をつけるためにあらゆる力を結集せざるを得なかった、明治という大きな時代背景がありました。日本の建築界が、アカデミーと行政、建設業界の一体化した行動をめざしたなかで、欧米諸国のアーキテクトとは異なる独自の建築家像をもつようになったのもこのような経緯に由来する点が大きいのかもしれません。
松本 純一郎

2012年06月11日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.31

 辰野はイギリスにおいて建築家の下で実務を経験したこともあり、西欧的なアーキテクトの職能を根付かせるためには、独立した建築設計事務所を主宰すること以外に道はないと考えていましたしかしながら彼の建築界における指導的立場はそれを許さず、工科大学教授として、後進を育てるための大学教育に専念せざるを得なかったのです。同時に清水組のように当時、力をつけつつあった建設会社に坂本復経、中村達太郎や渡辺譲といった後輩や教え子を送り込み、技術力の向上や設計部門の確立にも力を尽くしていました。
 日本の社会に建築家の職能を定着させる必要性を辰野と同様に強く感じていた曾禰も、1886年(明治19年)には海軍省の建築技師として活躍していました。そして1890年(明治23年)以降は恩師コンドルの紹介で三菱社に入社し、当時の財閥初の設計組織(現三菱地所設計)を確立するために尽力します。一方で妻木や片山らは、それぞれの官庁に於いて官僚建築家達を指導する立場にありました。
 このように明治初期の建築家達は、民間において設計監理の仕事に専念する立場にはなく、政府内部や国と結びついた財閥のなかで指導力を発揮すると同時に、建設会社の技術力向上にも一役買うといったように、日本の建築界に関するあらゆることに対処しなければならなかったのです。
松本 純一郎

2012年06月04日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.30

 造家学会が設立された1886年(明治19年)の時点では、民間の設計事務所は存在していませんでした。辰野が日本で初めて開設した建築設計事務所も、それを支える社会的基盤もまだなく、また大学に戻るよう要請されたこともあって、まもなく閉鎖せざるをえなかったのもこの頃でした。また造家学会が発行するようになった「建築雑誌」の明治20年9月号では、滝大吉が臨時建築局の職を辞し民間建築師の業務を始めたと伝えていますが、工業史などの資料によると、滝が設計事務所を開設したのは1890年(明治23年)となっています。
 実際、1890年代には河合浩蔵、山口半六、横河民輔、三橋四郎、伊藤為吉、遠藤於菟らが設計事務所を設立していますが、実質的には1888年(明治21年)にコンドルが36歳にして開設した設計事務所が、日本で最初の民間設計事務所であったといえるのです。
松本 純一郎

2012年05月28日

建築家職能運動120年奮闘記vol.29

 造家学会発足初年度である明治19年度の入会員総数は68名、そして主な名誉会員のなかには、初代造家学会名誉会長のコンドルや、のちに初代会長となる青木周蔵の名もあります。青木周蔵は、ドイツをはじめヨーロッパ諸国の公使を歴任し、井上馨外務大臣のもとで外務次官として井上外交を支えた外交官・政治家で、7年間に亘って会長を務めます。
 正会員には勿論、曾禰達蔵、片山東熊、佐立七次郎ら一期生をはじめとする工部大学校卒業生を中心として、妻木頼黄、山口半六らの留学組を含む第一世代の建築家といわれる建築家達も名を連ねています。そのなかで副会長辰野金吾の他に、理事として坂本復経(工部大学校3期生)、鳥居菊助(同4期生)、河合浩蔵、滝大吉(共に同5期生)の4人が選出され、第一回例会が1886年(明治19年)5月5日、日本橋清水満之助邸で開かれています。
松本 純一郎

2012年05月23日

建築家職能運動120年奮闘記 番外編の写真

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スライドショーで、ご覧ください。写真クリックで進みます。
番外編の本文はこちらからどうぞ

2012年05月21日

建築家職能運動120年奮闘記 番外編

 5月1日から10日まで針生承一氏と共に、ブリュッセルとロンドンの震災関連の国際シンポジウムに参加してきました。国際交流基金の協力で、日本大使館、RIBA、ベルギー建築家協会等の後援もあり、とても有意義なシンポジウムでした。針生康・萩原新主宰のSHSHの企画で、ベルギーではボザール(文化芸術センター)を会場として、JIAの支援活動を紹介し、建築家、エンジニア、都市計画課、哲学者と共に震災復興のあり方を議論しました。またロンドンではRIBAホールでアンジェラ・ブラディ会長も交え、建築家、都市計画課、国境のない建築家、芸術批評家等とのワークショップと公開レクチャーを開催しました。詳しいお話は6月中旬に予定されている報告会でお伝えします。
 イギリスでは、古くから医師や弁護士と共にアーキテクトがプロフェッションとして確立されていたそうです。RIBA は1834年に建築家の職能団体IBAとして設立され、1837年に国王から勅許状(ROYAL CHARTER)を授与されRIBA(王立英国建築家協会)となりました。従ってRIBAは、創立後177年も経た伝統と権威ある職能団体です。ビクトール・オルタ設計のベルギーボザールの建築も良かったけれど、今回の会場となったRIBA本部ビルの素晴らしさはそれを示していて、とても感動しました。日本で造家学会が設立された翌年1887年(明治20年)には、RIBA独自の建築家登録試験を実施するほどの力を持っていました。1931年にできた建築家(登録)法は、RIBAを中心とした職能団体のたゆまぬ努力の結果できたもので、名称独占のみのものとなっています。
松本 純一郎

2012年05月15日

東北支部総会参加して

 昨年以来本当に大変な日々が続いてきましたが、東北支部、地域会の皆さんの元気なお顔を拝見でき嬉しく思います。
 総会では、次年度の積極的な事業計画が確認され、東北の力強さを感じる事が出来ました。
公益法人に向けた組織、制度改革にやっと目処が着いてきました。これからは支部、地域会を主体に活動の中身を充実させて行く時です。
東北支部、地域会の皆さんが復興支援活動や地域に根差した社会貢献活動を推進して行くなかで公益法人に相応しい社会に貢献する建築家の姿を示し、活動を展開して頂くことを期待しています
皆さん、懇親会の勢いで、ガンバロー!
水戸部さん、ご苦労様でした。
渡辺新支部長、宜しくお願いします。

日本建築家協会会長 芦原太郎
posted by JIAみやぎ at 10:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 芦原会長から

2012年05月14日

建築家職能運動120年奮闘記 VOL.28

 以前お話ししたように、妻木頼黄ら3人の建築家と20人の職人達がベルリンへ発ったのが1886年(明治19年)11月で、その8ヶ月前の4月下旬にベックマンが来日しています。そして、同じ1886年(明治19年)4月10日に、辰野金吾が工部大学校から帝国大学工科大学にかわったばかりの造家学科教授に就任しました。
その少し前に、辰野は工部大学校教授を突然辞任し、日本で初めての建築設計事務所を開きましたが、それが時期尚早でうまくいかないところに曾禰達蔵から大学へ戻るように勧められたのです。同時に曾禰は、建築家の職能団体としての造家学会設立の考えを辰野に伝え、その実質的な指導者になるよう要請します。
 1886年3月15日、新橋で辰野金吾ら工部大学校一期生4名を含む卒業生を中心に、妻木頼黄、山口半六らも加えた15名によって造家学会設立に関する相談会が開かれ、河合浩蔵、辰野金吾、妻木頼黄、松ヶ崎万長の4人が創立委員に選出されました。そして4月9日の創立委員会において、規約が決定され、辰野金吾の副会長就任が決まります。RIBA(英国王立建築家協会)の会長職は貴族等がなることになっていたのに倣って、会長職は空席ということになりました。
 その規約は、RIBAとAIA(米国建築家協会)の規約を訳したものでした。たぶん当初から名誉会長に推挙されたコンドルから多くのアドバイスを受けたに違いありません。当時コンドルの助手をしていた工部大学校4期生の滝大吉がRIBAの会則を、同期の河合浩蔵がAIAの規約をそれぞれ訳し、相互対照し取捨の上、作り上げたといわれています。
 ここに日本建築学会の前身であると同時に、JIA(日本建築家協会)の遠い起源ともいえる、日本で初めての建築家の職能団体が発足することになったのです。しかしながら、この団体は、学術団体としての要素と、職能団体としての要素を併せ持ったもので、その後、時代の流れのなかで、大きく変貌していくことになります。
松本 純一郎

2012年05月07日

建築家職能運動120年奮闘記vol.27

 その後、山口半六は病を得て文部省を休職し、43歳で夭折するまで民間で活躍します。遺作となった旧兵庫県庁(現兵庫県公館)は、ロの字型の平面を持つフランスルネッサンス様式の伝統を踏まえた名建築で、昭和の大改修によってこの様式特有の曲線美豊かなスレート葺きのマンサード屋根が、その正面によみがえりました。
 市民生活のための建築を教育目標とするパリ中央工芸学校で学んだ山口は、第一世代では例外的に国家の記念碑ではなく、学校や会社、地方庁舎といった市民のための建築を創り続けました。そういった意味でもこの世代では異色の建築家であったといえます。
 山口より5歳年上で親友だった曾禰達蔵は、建築学会誌上の略伝で「君、資性愿潔にして沈着、開亮にして貞偉なり。その建築の監督に従事せる皆軌を一にし、一線一画忽にせず。加ふるに学殖富膽、識見高邁、最も玄奥の数理に長ず」と書き記し、山口のきまじめな人柄と優秀さを褒め称えています。
松本 純一郎

2012年04月30日

建築家職能運動120年奮闘記vol.26

 文部省の建築家として活躍した山口半六は、1858年(安政5年)出雲国松江に、松江藩兵学者山口軍兵衛礼行の次男として生まれます。藩校でフランス語を学び、13歳で東京に出て、翌年大学南校(東京大学の前身)に入学。天才として崇め賞されたほど優秀だったそうです。そして文部省の留学生に選抜され、1876年(明治9年)フランスに留学し、国立パリ中央工芸学校で建築を学びます。
 1881年(明治14年)に帰国後、一時、郵便汽船三菱会社でレスカスの下で働いた後、1885年(明治18年)文部省に入ります。そこで久留正道(工部大学校3期生)と共に、第一高等中学校をはじめ金沢の四高、熊本の五高、上野公園に残る日本初のコンサートホールといわれる旧東京音楽学校奏楽堂などを手がけました。1891年(明治24年)には辰野に次いで二人目となる工学博士号を授与されています。もし辰野が工科大学教授を断っていたら、彼がその席に着いていただろうといわれています。
松本 純一郎

2012年04月27日

2012-04-26石巻市北上防災集団移転WS相川集落

昨夜の北上WSは相川集落の住民が対象のWSでした。
相川集落は、私たちが石巻市北上での防災集団移転計画支援活動を始めた際に、一番最初に(ケーススタディ的に)取り組んだ集落です。WSにも懐かしい方々がたくさんいらっしゃいました。
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この集落は、二十数戸の移転希望者が、2グループに別れ、二箇所の移転候補地を希望しています。多くの住民が希望する移転候補地には「古墓」が散在しており、そこへの移転を嫌った「4(+α)」戸が別の移転候補地を希望していました。

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「古墓」といって、このあたりの集落周囲の山には、江戸時代以前からの古いお墓が散在しています。「4(+α)」戸の方々は、それを荒らしてしまうことを

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WSの最初から、自分で構想した案を持ち込んだりする方もいて、WSは大いに盛り上がりましたが、皆さんの本心は、出来れば、集落全員でまとまって移転することにあるようで・・・、

・・・最初っから、「やはりもう一度全員の意思統一を図ってまとまって移転したい」という意見と、「その気持ちは充分あるが、議論を差し戻して振り出しに戻ることに賛成できない。出来るだけ早く移転し、新しい一歩を踏み出したい」という意見の中で揺れていました。

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議論を進めるうちに「4(+α)戸」の方々の中にも、考え直しても良いという声もちらちらと聞こえ始め・・・、
もう一度、別移転地を希望している「4(+α)戸」の人たちに希望を確認して、仕切り直そう、ということになりました。

(T)


思い出したように、たまに言っておきますが、ありがたいことにこれらの活動は「赤い羽根」の支援をいただいております。
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posted by JIAみやぎ at 06:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 石巻北上での復興支援活動

2012年04月25日

2012-04-23建築批評会の様子

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先週末から、GWなか日に掛けて連日、石巻市北上の防災集団移転ワークショップが行われていますが、昨日は、かねてから予定していた「剌Z宅 建築批評会」を行ってきました。
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現地での批評会はぼちぼちの盛り上がりでしたが、場所を変えての批評会(飲み会)は大盛況でした。
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・・・しかし、さいきんこのブログも、忙しさにかまけて、考えて煮詰めた内容を載せようという気が失せてしまっていますなぁ・・・。もう少し努力します・・・。

・・・暇が出来たら、ですが・・・。

(T)
posted by JIAみやぎ at 07:15| Comment(0) | TrackBack(0) | オープンハウス見学記

2012年04月23日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.25

 日本の建築家第一世代といわれる人々のなかで、辰野金吾や曾禰達蔵らのイギリス派と、松崎万次郎や妻木頼黄らのドイツ派に対して、フランス派として活躍したのが片山東熊と山口半六です。
話はずいぶん遡りますが、長州藩、萩の下級武士である片山家に生まれた片山東熊は、1865年(慶応元年)二人の兄に続いて藩の騎兵隊に入隊します。体が人一倍大きく年齢を偽っての入隊だったそうです。門限を破ることが多く謹慎を命じられたこともあり、剛毅な性格で、1868年(慶応4年)の戊辰戦争においては、兄たちと共に会津征討総督参謀山県有朋率いる官軍に参加し、東北各地で奮戦しています。度重なる疲労のため戦場で寝てしまい、砲弾の飛び交うなか九死に一生を得たという逸話も残っています。
工部大学校卒業3年後の1882年(明治15年)、山県有朋のはからいで有栖川宮邸の設計でコンドルの助手として図面作成の機会を得ます。その後、家具調達などでヨーロッパに数回も足を運び、独学でフランスの宮廷建築を学びます。後に山県の配慮で宮内省に入り、奈良帝室博物館(明治27年)、京都帝室博物館(明治28年)などの素晴らしいバロック建築を設計。さらに明治以降の建築で初めての国宝となった、バロック−ルイ14世様式の旧赤坂離宮(後に村野藤吾によって改修された現迎賓館)を設計し、日本最高の宮廷建築家として名を馳せました。

松本 純一郎

2012年04月22日

しばらく更新をサボっていたので・・・

しばらく更新をサボっていたので、ダイジェスト版でお送りします。

今週の火曜日にはJIA宮城総会と、乾久美子さんの講演会がありました。
JIA新人賞受賞記念の講演です。
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講演内容も非常に面白かったのですが、懇親会は、乾さんの気さくな人柄もあって非常に盛り上がったそうです。

続いて、一昨日金曜日「JIA復興住宅研究会」がありました。
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地域起しと一体になった地域型木造復興住宅の立ち上げが、少しづつですが進んでいます。

昨日土曜日は、先日ここで告知したオープンハウスがありました。
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来週火曜日には、ここで建築批評会を行います。


都市建築設計集団/UAPPより 「(仮称)八乙女の剌Z宅」批評会参加のお願い
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建築家、建築関係者、学生の皆様

この度、仙台市泉区に、わたしたちが手がけた住宅が完成し、クライアントの御厚意により皆様にご覧いただける機会を得ました。条件の険しい敷地な がら、建築計画上のアイデアにより、ゆったりした視界の広がりを確保した住宅です。
つきましては、建築批評会を企画しましたので、皆様の貴重なご意見を頂きたく、ご案内を差し上げます。

開催日時: 2012年 04月 24日(火)
      17時00分〜 18時30分現地にて、批評会
      19時00分〜 場所を変えて、呑みながらの批評会(会費:2500円程度)
           (@カフェ・アンビエント 仙台市青葉区一番町1−15−38)
             飲み会だけのご参加でも大歓迎です。
場所  : 仙台市泉区八乙女  
交通  : 仙台市営地下鉄「八乙女駅」より徒歩10分

 ※ご参加頂ける方は「氏名/参加人数/緊急連絡先」を記入の上、事前にお申し込みください。
  お申込いただいた方に現地案内図をお送りいたします。

  お申込みメールアドレス :  uapp@mve.biglobe.ne.jp
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オープンハウス終了後、石巻市北上での高台移転WSに専門家として参加してきました。3月末に住民合意が成立した「二丁谷地」地区のWSです。
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(T)
posted by JIAみやぎ at 08:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 東日本大震災関連

2012年04月16日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.24

 旧司法省庁舎は、実施設計と工事監理を河合浩蔵が担当し、7年の歳月を費やして完成しました。関東大震災でも外壁の煉瓦がスチールで補強されていたため、ほぼ無傷で残ります。その後、1945年の空襲で壁面、床以外を消失するも、戦後の改修によって法務省本館として再利用され、1994年には重要文化財として創建当時の姿に再現されました。ドイツ・ネオルネッサンス様式をベースに各所にバロックを配した、庁舎としては華やかな構成の建築です。その一角に設けられた展示室には、当時設計に関わった人々の写真や煉瓦壁を補強した建築技術などの展示がされています。近代建築ファン必見です。
最後のお雇い建築家となったエンデ&ベックマンは、東京の官庁集中計画に携わっただけでなく、ドイツの優れた建築技術や良質な建築材料の製法を日本に伝えようとしました。さすが技術重視の国ドイツの建築家ですね。そして、当時ベルリンに妻木ら建築家と共に留学した職人のなかに篠崎源次郎という屋根職人がいました。エンデ&ベックマンが設計した帝国議会仮議事堂をはじめ、全国各地の公共建築の屋根を雄勝や登米のスレートで葺いた職人で、スレートの産地雄勝を訪問したこともあるそうです。
松本 純一郎

2012年04月15日

2012-04-14もろもろの活動

まずは、「JIA木造復興住宅検討委員会」の活動。
来て見て触れて、泊まることの出来る「復興モデル住宅」を実現できないかと模索を行っています。
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続いて、「高台移転・小室住民WS」への道すがら、新規開店したある「仮設拠点」へお祝いに立ち寄ってきました。被災して旦那さんや家族を失った主婦たちが、子育てをしながら仕事をし、それが地域復興への支援になるような活動を目指して進んでいる住民グループです。
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「We Are One」
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この日は開店初日だったのですが、あっという間に完売してしまったようです。

続いて「高台移転・小室集落住民WS」3回目。
今回は住民の皆さんの要望に沿って、出来るだけ早いテンポでのWSの開催となったため、北大・法政大チームが参加できず、我々JIAだけでの運営となりました。何とか7人の人数を掻き集めましたが、これが最低必要人員のようです。
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細かい修正点はあるものの、我々が持ち込んだ移転案にほぼ賛成してもらいました。

しかしこうして一日を眺め回してみると、我々の復興支援活動は地味すぎて、「建築家らしい」と形容できるものがまったくありませんね(笑)
今回の震災での復興支援活動へのスタンスを大きく隔てるのは、このあたりの感覚だと思います。自分の日々の仕事の範疇に篭って活動するか、それとも、培った専門知識を社会の広範なニーズに応じて無償で開け放つか・・・・・・、

復興支援活動をアトリエ事務所的に矮小化して捉えてしまうと、震災復興という大きな社会的動きの中のほんの数百分の一の部分しか捉えることは出来ません。また、震災復興にアトリエ事務所的建築家が立ち向かい問題を解決するという図は「英雄譚・英雄物語」としては、単純明快で非常に分かりやすいのですが、それでいいのか、という思いは常に消えません。

もちろん、ひとりの建築家やひとつの活動が社会全体のすべてを相手にして問題全体に立ち向かうことは出来ません。しかし、全体をきちんと把握した上で、自分がどこで何をしているかをきちんと知っておくことは非常に重要なことだと思うのです。

わたし自身は、自分の一生の仕事としては、建築という狭い範囲で勝負し「ひとつの建築の出来上がりの良し悪し」だけで判断されたいと願っておりますが、復興支援活動に際しては、そこをすべて取り払って持てる技能を無償で開け放つような活動したいと考えています。

伊東豊雄さんという世界的な建築家は、震災を機にした「変心」を口にしているようですが、その変化を作家的態度の変化・建築家としてのスタンスの変化として捉えてしまっていることに、理解の稚拙さを感じてしまいます。

手島浩之
posted by JIAみやぎ at 07:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 石巻北上での復興支援活動

2012年04月09日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.23

 エンデとベックマンは、ベルリンで初めて民間の設計事務所を開いた建築家です。当時ドイツは1870年にビスマルクによって統一を果たしたばかりの新興国でした。それまでもベルリンを中心に日本と同じように官僚建築家が国家プロジェクトに携わっていました。エンデはベルリン工科大学教授も務めた、いわばプロフェッサーアーキテクト。一方ベックマンはベルリン建築家協会の会長を務め、協会の機関誌を創刊する等、建築ジャーナリズムを含め実務面や建築家の職能確立といった面でも活躍した建築家です。
そして日本から依頼された仕事は、彼らの生涯で最大のものでした。しかしながら、極端な欧化政策への批判による1888年(明治21年)の井上の失脚で、この壮大な計画は頓挫してしまいます。実際に実現された彼らの建築は現在、霞ヶ関に法務省本館として保存再利用されている司法省の建物と、今はなき裁判所だけでした。

松本 純一郎

2012年04月07日

「(仮称)YOS 八乙女の剌Z宅」オープンハウスのお知らせ

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この度、仙台市泉区に、わたしたちが手がけた住宅が完成し、クライアントの御厚意によりオープンハウスを開催する運びとなりました。条件の険しい敷地ながら、建築計画上のアイデアにより、ゆったりした視界の広がりを確保した住宅です。
皆様の貴重なご意見を頂きたく、ご案内を差し上げます。

開催日時: 2012年 04月 21日(土) 10時〜17時00分
            04月 22日(日) 09時〜13時00分

※ご来場希望の方は「氏名/参加人数/緊急連絡先/見学希望日時」を記入の上、事前にお申し込みください。お申込いただいた方に現地案内図をお送りいたします。

  お申込みメールアドレス :  uapp@mve.biglobe.ne.jp

「八乙女の剌Z宅」オープンハウスのお知らせ.pdf
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手島浩之
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都市建築設計集団/UAPP
Urban Architecture Planning Partnership
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宮城県仙台市青葉区一番町一丁目15-38小林ビル2F 〒980-0811
telephone 022-217-2515 facsimile 022-217-2516
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uapp@mve.biglobe.ne.jp http://www.uapp.jp
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posted by JIAみやぎ at 17:52| Comment(0) | TrackBack(0) | オープンハウス情報

2012年04月06日

JIA宮城第1回(新旧)役員会

JIA宮城第1回(新旧)役員会(会見監査・宮城復興支援員会)
 懇親会が行われました。

日時:4月4日(水)
 16:00−17:00  宮城会計監査
 17:00−18:00  宮城復興支援委員会
 18:00−20:00  宮城(新旧)役員会
 20:00〜 懇親会          

会場:JIA東北支部事務局

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顔ぶれも新たな役員会です。

復興支援委員会も新たにリニューアルしましたので、その陣容も、そのうちに発表して行きたいと思います。

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みょうがや。
最近、ここが多いです・・・。刺身がうまい!

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たらふく飲んでしまいました・・・。
私はさっさと帰りましたが、皆さんは勇んでのどを鍛えに行ったようです。

(T)
posted by JIAみやぎ at 18:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 東日本大震災関連

2012年04月02日

番外編

 2011.3.7のVol22を書いて以来、約一年のご無沙汰です。
3.11東日本大震災で被災された皆様には、心よりお見舞い申し上げます。
あの日以来、JIA建築家のひとりとして、会員の皆さんと共に災害支援活動に携わり、現在も東北支部復興支援委員長として微力ながら、支援活動を行っております。このブログも続けることもできず一年以上も経過してしまい、大変申し訳なく思っています。JIAの復興支援活動は、まだまだ何年も続くと思いますが、このブログもせっかく始めたことですので、勝手ながら再開したいと思い立ちました。4月9日(月)からペースを落としてのUPとなりますが、よろしくお付き合いください。

松本 純一郎

2012年03月30日

東北工大主催のシンポジウムに参加してきました。

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日 時: 2012 年3 月28 日(木) 13:30 〜16:30
場 所: 東北工業大学一番町ロビー (仙台市青葉区一番町1-3-1 ニッセイ仙台ビル4F)
主 催: 東北工業大学工学部建築学科・復興支援室

プログラム (司会:渡邉浩文・東北工業大学建築学科教授・同復興支援室長)
13:30〜13:40 開会挨拶
  谷津憲司・東北工業大学建築学科教授・学科長
13:40〜14:10 報告@ 千葉晃司・宮城県土木部復興まちづくり推進室室長
  「宮城県の復興まちづくり計画について(仮)」
14:10〜14:40 報告A 久坂斗了・女川町・UR 都市機構震災復興支援室宮城震災復興支援事務所
  「東日本大震災の被災地女川町に派遣されて−現状と課題」
14:50〜15:15 報告B 福屋粧子・東北工業大学建築学科講師・ArchAid 発起人
  「復興まちづくりへの被災住民参画について」
15:15〜15:40 報告C 新井信幸・東北工業大学建築学科講師・仮設カスタマイズお助け隊
  「復興に向けたコミュニティと創造力を育む仮設カスタマイズ」
15:40〜16:25 討 論 コーディネーター: 沼野夏生・東北工業大学建築学科教授・専攻主任

16:25〜16:30 まとめ・閉会挨拶(渡邉浩文)

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少しだけ、コメントをつけておきます。
宮城県が震災後、どう行動していたかを改めて当事者から聞くことが出来て大変面白かったです。これからも、どんどんこういう行政の当事者から直に対話が出来る機会を作って欲しいと思います。
久坂さんの女川の状況報告、震災後のさまざまなことについての状況認識はすごく面白く興味深かったです。
福屋さんの発表は、(いつもそうですが)相変わらず良く作りこまれているなぁ、と感心します。
新井さんの活動はこうしてみるとすごく興味深く、意義のあることだと思えました。仮設住宅に移り住んだ人の心の機微に入り込んだ描写の出来る活動は、派手さは無いものの、絶対に必要です。

討論会終了後には、客席からコメントを求められた京都府立大学名誉教授広原先生がこう言っておられました。
「『計画』って言う言葉は、私たちの時代には進歩的な概念だった。その対極には無秩序があり、無計画があり、計画の先には未来がると信じて研究活動を行ってきました。ところが今は、『計画』が官僚による統治機構の統治手段になってしまっている。この呪縛から逃れない限り、未来は無い」

ご明察でございます。
こんなにまっとうな、研究者の意見は久しぶりに聞きました。
この一言を聞けただけでも、時間を割いた甲斐がありました。

(T)
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2012年03月22日

2012-03-20お彼岸の小室・小指集落WS

お彼岸のこの日、二つのワークショップが行われました。
14時から、小指集落の住民合意形成に向けてのWS
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18時からは、合意形成の成立した小室集落では集落造成計画案立案のためのWSです。
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(T)
posted by JIAみやぎ at 07:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 石巻北上での復興支援活動

2012年03月20日

災害復興に係る住宅融資制度説明会

「災害復興に係る住宅融資制度についての説明会」があり、参加してきました。

              記

1 日 時 3月19日(月) 午後7時00分から午後9時00分

2 会 場 北上保健医療センター「ひまわり」ホール

3 講 師 住宅金融支援機構東北復興支援本部 田 弘 芳 樹 氏

4 内 容 ◇防災集団移転促進事業に対する金融の関わり
      ◇抵当権抹消の要件と残債務の支払方法
      ◇移転先建物への災害復興住宅融資の利用上の留意点
       参考 災害復興住宅融資のシュミレーションなど

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会場はまさに満席で、一席の空きもありませんでした。参加者は80名近くいたようです。

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配布資料はこちらです。クリックすると拡大できるので、どうぞご覧ください。
先ずは「資料ー1」全体の概要です。
A4タテ、4ページ。
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次いで「資料ー2」
『「総返済負担率」とは?』と題したペーパー。A4ヨコ表裏2ページです。
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裏面はその計算例。
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「資料-3」は、「災害復興住宅融資のご利用例」の紹介です。
A4タテ表裏2ページに、相談例を4例挙げ、「災害復興住宅融資」について事例に基づいて説明しています。
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最後に「資料-4」。「災害復興住宅融資の返済額の目安」と題したペーパー。
借入額を制度の枠に即して三つに分けて例示し、返済期間と、それぞれの利子相当額を記載しています。
この「利子相当額」が今回の制度で国庫から補填される分のようです。
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会が終了したあとも講師の方に熱心に質問をする姿も見られました。

(T)
posted by JIAみやぎ at 06:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 石巻北上での復興支援活動

2012年03月12日

311一年目を通り過ぎて

みなさん。
去年の3月11日からちょうど通り過ぎて一年目をむかえて、どうでしたか?

振り返ってみると、この数日間は気持ちが妙に高揚したり、沈みきったり、といつにない不思議な数日間を過ごしました。
「一年」なんて、頭の中にしか存在しないような区切りなんて何の意味も無いと思っていました。
季節が一巡りし、また新たに季節がもう一巡りするだけなのですが、これからの一年は輪廻の端緒あるような、すべてが強制的に元に戻されるような、不思議な気持ちのする始まりであり……、また、終わりであるような……、不思議な区切りであります。

こんな風に一年と言う一巡りを感じるとは、こうして一年を迎えるまで思ってもみませんでした。
みなさんはどうでしたか?

(T)
posted by JIAみやぎ at 21:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 東日本大震災関連

2012年03月10日

311関連のイベント

告知も何も出来ずに通り過ぎてしまいましたが、3月8日(木)9日(金)にJIAの震災復興関連のイベントがありました……。
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すごく充実したイベントでしたが、終了後の懇親会の席で、本部から来たある美しい復興対策委員の方に「手島さんですか?」と声を掛けられたのが悔やまれます……。
続いてこう言われました。
このブログをずっと読んでいて、どんな人だろうなぁと楽しみにしていたんです……。
で、どうでした?
「イスにふんぞり返ってあくびをしているさまを見て、とてもがっかりしました……」

わたしも同じくがっかりです……

さて、気を取り直して、8時からは場所を変えての送別会でした。
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こんなに親密に盛り上がった送別会も珍しいでしょう。


次いで、本日、東北大学杜春会でイベントがありました。
杜春会というのは東北大学工学部建築学科の同窓会組織です。

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「震災から 1 年」杜春塾 +JIA東北支部 主催イベント
 ……JIA東北支部の建築家と学生が語り合う……
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内容については、省きます。現場にいた人にしかわからない密やかで親密な場所というのがこの世の中にあるべきだと思いますので……。

しかし、こういうイベントは今までありそうでなかったのですが、ほんとうに有意義でした。
僕らも若い人たちを巻き込んでいこうという意識に欠けていました。これからの長い道のりで意義のある復興支援活動を展開しようと考えると、若い人たちに向けて活動をオープンにしてゆくことが重要ですね。
僕らもあらゆる人たちに向けて、活動への参加を心から呼びかけ、必死で情に絆してでも懐柔する熱意が必要です。

震災後一年にふさわしい、ほんとうに楽しい会でした。
参加した人数はたったアレだけですし、正面玄関の閉まったエレベーターの無い研究棟の四階でのイベントでしたが……、
今回の震災は、わたしたち個々人にとっても緩みかけたいろいろな親しかった人たちとの関係を結びなおす、良い機会になっているんだと思います。復興に向けての意欲を持った人たちが素直にお互いに信頼しあって進んでゆける状況を目指して、わたしたちも次のステップへ歩みだそうと考えています。

人類初飛行がたった五人の証人の前でしか成立しなかったように、この日の出来事も未来に向かって大きく飛び立ってゆきそうです。

手島
posted by JIAみやぎ at 21:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 東日本大震災関連

2012年03月04日

赤い羽根共同募金

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石巻市北上での高台移転専門家支援活動に、赤い羽根共同募金「災害ボランティア・NPO活動サポート募金(ボラサポ)」の支援を受けることが決定しました。

今後、こうした基金を活用しながら、活動を展開してゆきます。

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突然こうした箱が届き・・・、

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今後ともよろしく!!
posted by JIAみやぎ at 07:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 東日本大震災関連