2010年11月15日

建築家職能運動120年奮闘記 F

 コンドルは建築を技術と芸術の融合として捉え、建築の中に「文化の融合」を模索しました。そしてプロフェッショナルとしての建築家のあり方も伝えようとしたに違いありません。しかし性急な西欧化・近代化を進めるなか、明治の指導者は建築を工学技術の一つとして捉え、日本に移植しようとしました。近代日本の建築は芸術的要素や思想的背景が少ない「工学技術」として移入され発展してきたといえるのです。そのあたりの時代的背景も少し見てみましょう。
 日本では1867年の大政奉還、そして1868年の明治維新を経て、1869年(明治2年)戊辰戦争が終結します。社会制度の変革と共に明治新政府にとっての急務は、欧米先進国に一刻も早く近づくための国造りでした。いわゆる「富国強兵・殖産興業」の政策です。その指導者として政府に雇われた外国人技術者、つまり御雇外国人は明治5年の段階で378人にも及んだそうです。そして最も多くの外国人を雇用したのが工部省と文部省でした。彼らから直接に、そして急速に最新の技術や文化を取り入れることこそが明治政府がめざす国造りの近道だったのです。
 1864年に来日し、グラバー商会の一員として薩摩藩の洋式工場を手がけたイギリス人建築技師トーマス・ウォートルスも、大蔵省で大阪造幣寮を設計した後1871年工部省に入ります。彼らのもとで見様見真似で偽洋風建築を手がけていた大工棟梁出身者らも雇われ、活躍し始めました。そして1873年(明治6年)辰野らが第一期生として入学する工部寮が、工業教育機関として設置されることになったのです。

松本 純一郎

2010年11月08日

建築家職能運動120年奮闘記 E

コンドルが育った国イギリスは、世界で最も古くからプロフェッショナルな職業が社会に定着した国でした。プロフェッショナルという言葉が、神に宣誓(プロフェス)するという意味から来ていて、元々キリスト教の歴史と深い関係があったことからも頷けますね。プロフェッションの元祖は聖職者だったんですね。
産業革命を契機として、イギリスの建築家は世界で最も早くアーキテクトとしての職能を確立し始めます。彼らは、他の職能人同様、私欲を捨てて神に奉仕するという自覚に支えられていて、公共への奉仕を重視し、反商業主義的、非営利主義的な意識を持っていました。王立英国建築家協会が設立されたのは1834年(天保5年)、日本で造家学会が発足する52年前のことです。その後1931年には、RIBAの想像を超えた努力の結果、建築家法が制定されたのです。
松本 純一郎

2010年11月01日

建築家職能運動120年奮闘記 D

 1876年(明治9年)、当時工部卿として工部寮(1877年工部大学校に改編)を設置した伊藤博文と元老院議官井上馨からの要請を受け、ロンドンの日本領事館は正統派の建築家を必死で探していました。そんな中、ロンドンに出張中の井上馨のもとにRIBAのソーン賞を若干23歳で射止めたコンドルの情報が舞い込みます。コンドルは、RIBAの重鎮であったトーマス・ロジャー・スミスの設計事務所での建築家見習いを終え、ウイリアム・バージェスの事務所で助手として働き始めたばかりでした。
バージェスはイギリスで最も早く日本文化に注目した1人で、早くから浮世絵などの日本文化のコレクションを始めていました。子供の頃から海外のことに興味を持っていたコンドルがその影響を受けないはずはありません。
日本の文化を理解し、謙虚な人柄のコンドルに領事館の担当者もほれこみ、井上に推挙したそうです。そして翌年1877年(明治10年)1月28日横浜港に到着、何と翌日から工部大学校の教壇に立つことになったのです。
松本 純一郎

2010年10月25日

建築家職能運動120年奮闘記 C

「アーキテクチュアを設計するためには、材料や力学などの工学的知識が必要です。また設備、衛生、音響などの技術についても、知らなければなりません。
しかし、工学技術だけでは充分ではない。アーキテクトとなるには、技術の知識とともに、芸術の素養を高めなければなりません。現代は功利的な時代であり、芸術的な価値は軽んじられています。しかし、私は、あくまでもアーキテクトの教育として、芸術面に重点を置こうと考えています。なぜなら、この功利に支配された時代、人々が利益を求めるあまり、魂を失っている時代において、人間が本当に人間らしい心をもって生きていくためには、芸術によって、精神と感性を高めることが必要だからです。
皆さんの国の作家たちのなかにも、簡潔な言葉を用いながら、読者の心にしみいる詩や文章を書く芸術家がいるでしょう。その作家はただ言葉の使い方が巧いだけでなく、精神の高貴さによって、人を感動させているのに違いありません。アーキテクトも同様なのです。力学や材料の知識によって、建造物は設計されますが、その出来栄えが人々を感動させるのは、技術や建物の大きさ、装飾によってではなく、設計する者の魂の美しさによってなのです。」
ロマン主義者コンドルらしい言葉ですね。現代の我々も感動しちゃいませんか。
松本 純一郎

2010年10月18日

建築家職能運動120年奮闘記 B

 彼ら日本人最初の建築家達を指導したコンドルは、ロンドン大学建築学科出身で、若手建築家の登竜門ともいうべき英国王立建築家協会ソーン賞設計コンペで優勝した新進気鋭の建築家でした。明治政府の要請で若くして来日し、1883年(明治16年)教え子の辰野金吾に教授の座を譲るまでの6年間に亘って多くの日本人建築家を育てました。日本の文化・芸術を心から愛し、日本に骨を埋めた人です。彼こそがこの日本に建築家の精神を植え付け、日本の近代建築ひいては現代日本建築家の活躍の素地をつくったといっても過言ではありません。作品としては鹿鳴館があまりにも有名ですが、東京神田のニコライ堂、旧岩崎邸等が彼の作品として今も残っており、その気品あふれるデザインは彼の高潔な人柄を偲ばせてくれます。東京大学工学部の正門広場に彼の銅像が凛とした姿で建っています。 
彼の最初の講義録が「建築とは何か」として残っていますので、次回はそのコンドルの言葉にしばし耳を傾けてみたいと思います。

2010年10月11日

建築家職能運動120年奮闘記 A

日本の近代産業推進のために明治6年に開校した工部寮が1877年(明治10年)「工部大学校」と改称されました。辰野はその造家学科一期生として、3人の同級生曾禰達蔵、片山東熊、左立七次郎と共に、若干25才で教授として赴任したイギリス人建築家ジョサイア・コンドルに学びました。入学時は最下位だったにもかかわらず首席で卒業し、1880年(明治13年)首席者のみに許された3年間のイギリス留学を果たします。
辰野と曾禰は唐津の同郷ですが2才年上の曾禰は江戸詰めの上級武士で、戊辰戦争で会津でも戦った人です。一方辰野は下級武士で18才の時、工部寮入学のため東京に出るまで唐津から出たことはなかったそうです。当時唐津藩に洋学校ができ、二人はそこでなんと仙台藩出身の高橋是清(後の総理大臣)に英語を学び、彼の薦めで工部寮を受験することになったのです。坂本龍馬が暗殺されて5年ほど後の時代、その二人の姿を、龍馬伝に出てくる新しい国をつくる気概に燃える海援隊の若者達の姿と重ねて想像してみるのも楽しいですね。
松本 純一郎


2010年10月04日

建築家職能運動120年奮闘記 @

 皆さん、建築家辰野金吾をご存じでしょうか。そうです、今まさに保存復元工事真っ只中の東京駅を設計した建築家です。ペリーが浦賀に来航した翌年の1854年(嘉永7年)に九州唐津に生まれ、日本人最初の建築家として、日本最初の建築家集団「造家学会」の設立を主導しました。不器用で謹厳実直、頑固一徹な人だったそうですが、私の父も九州生まれの「肥後もっこす」なので、何となくイメージできます。「辰野堅固」とあだ名されたほど、彼の設計する建築は重厚で堅牢な建築でした。確かに代表作「日本銀行本店」などを見ると実感しますね。デザインは赤レンガに白い石を帯状に配したヴィクトリアン・ゴシックに影響を受けたもので「辰野式」とも呼ばれました。東北では、盛岡市に現存する「岩手銀行本店」が彼の作品です。
                    
※肥後もっこす:正義感が強く頑固な性質




2010年09月24日

松純が語る『建築家職能運動120年奮闘記』0はじめに

 先日のJIA宮城例会で、日本での建築家職能確立運動の変遷を、ブログに連載することになりました。
私も今年1月に還暦を迎えました。建築基準法と建築士法も1950年に公布されたので、同じく還暦を迎えたわけです。ともに、時代に合わないのは明白です。
さらに遡ること64年前(現在からいえば124年前)の1886年(明治19年)、JIAの起源といえる日本で最初の建築家の団体、造家学会が設立されました。その時から日本における建築家職能運動の歴史が始まったといえます。その歴史をひもときながら、建築とは?建築家とは?を皆さんと共に考えていきましょう。 




※「松純が語る『建築家職能運動120年奮闘記』」は毎週月曜日に定期連載する予定です。