2012年04月23日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.25

 日本の建築家第一世代といわれる人々のなかで、辰野金吾や曾禰達蔵らのイギリス派と、松崎万次郎や妻木頼黄らのドイツ派に対して、フランス派として活躍したのが片山東熊と山口半六です。
話はずいぶん遡りますが、長州藩、萩の下級武士である片山家に生まれた片山東熊は、1865年(慶応元年)二人の兄に続いて藩の騎兵隊に入隊します。体が人一倍大きく年齢を偽っての入隊だったそうです。門限を破ることが多く謹慎を命じられたこともあり、剛毅な性格で、1868年(慶応4年)の戊辰戦争においては、兄たちと共に会津征討総督参謀山県有朋率いる官軍に参加し、東北各地で奮戦しています。度重なる疲労のため戦場で寝てしまい、砲弾の飛び交うなか九死に一生を得たという逸話も残っています。
工部大学校卒業3年後の1882年(明治15年)、山県有朋のはからいで有栖川宮邸の設計でコンドルの助手として図面作成の機会を得ます。その後、家具調達などでヨーロッパに数回も足を運び、独学でフランスの宮廷建築を学びます。後に山県の配慮で宮内省に入り、奈良帝室博物館(明治27年)、京都帝室博物館(明治28年)などの素晴らしいバロック建築を設計。さらに明治以降の建築で初めての国宝となった、バロック−ルイ14世様式の旧赤坂離宮(後に村野藤吾によって改修された現迎賓館)を設計し、日本最高の宮廷建築家として名を馳せました。

松本 純一郎

2012年04月16日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.24

 旧司法省庁舎は、実施設計と工事監理を河合浩蔵が担当し、7年の歳月を費やして完成しました。関東大震災でも外壁の煉瓦がスチールで補強されていたため、ほぼ無傷で残ります。その後、1945年の空襲で壁面、床以外を消失するも、戦後の改修によって法務省本館として再利用され、1994年には重要文化財として創建当時の姿に再現されました。ドイツ・ネオルネッサンス様式をベースに各所にバロックを配した、庁舎としては華やかな構成の建築です。その一角に設けられた展示室には、当時設計に関わった人々の写真や煉瓦壁を補強した建築技術などの展示がされています。近代建築ファン必見です。
最後のお雇い建築家となったエンデ&ベックマンは、東京の官庁集中計画に携わっただけでなく、ドイツの優れた建築技術や良質な建築材料の製法を日本に伝えようとしました。さすが技術重視の国ドイツの建築家ですね。そして、当時ベルリンに妻木ら建築家と共に留学した職人のなかに篠崎源次郎という屋根職人がいました。エンデ&ベックマンが設計した帝国議会仮議事堂をはじめ、全国各地の公共建築の屋根を雄勝や登米のスレートで葺いた職人で、スレートの産地雄勝を訪問したこともあるそうです。
松本 純一郎

2012年04月09日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.23

 エンデとベックマンは、ベルリンで初めて民間の設計事務所を開いた建築家です。当時ドイツは1870年にビスマルクによって統一を果たしたばかりの新興国でした。それまでもベルリンを中心に日本と同じように官僚建築家が国家プロジェクトに携わっていました。エンデはベルリン工科大学教授も務めた、いわばプロフェッサーアーキテクト。一方ベックマンはベルリン建築家協会の会長を務め、協会の機関誌を創刊する等、建築ジャーナリズムを含め実務面や建築家の職能確立といった面でも活躍した建築家です。
そして日本から依頼された仕事は、彼らの生涯で最大のものでした。しかしながら、極端な欧化政策への批判による1888年(明治21年)の井上の失脚で、この壮大な計画は頓挫してしまいます。実際に実現された彼らの建築は現在、霞ヶ関に法務省本館として保存再利用されている司法省の建物と、今はなき裁判所だけでした。

松本 純一郎

2012年04月02日

番外編

 2011.3.7のVol22を書いて以来、約一年のご無沙汰です。
3.11東日本大震災で被災された皆様には、心よりお見舞い申し上げます。
あの日以来、JIA建築家のひとりとして、会員の皆さんと共に災害支援活動に携わり、現在も東北支部復興支援委員長として微力ながら、支援活動を行っております。このブログも続けることもできず一年以上も経過してしまい、大変申し訳なく思っています。JIAの復興支援活動は、まだまだ何年も続くと思いますが、このブログもせっかく始めたことですので、勝手ながら再開したいと思い立ちました。4月9日(月)からペースを落としてのUPとなりますが、よろしくお付き合いください。

松本 純一郎

2011年03月07日

建築家職能運動120年奮闘記 vol22

 妻木頼黄らの一行20名がドイツへ渡るのと前後して、ドイツからは、エンデ&ベックマンをはじめとして、ベルリン都市計画の父といわれる都市計画家のジェームス・ホープレヒト、建築家のヘルマン・ムテジウスやリヒャルド・ゼール、さらには専門技術者等、総勢12人が来日します。明治政府がひとつの事業にこれほどの人々を招聘し、また派遣した例は他にないといわれています。それほどこの計画は、国家の威信をかけたものだったのだといえます。  
 そしてエンデ&ベックマンは、1886年(明治19年)、築地本願寺あたりから霞ヶ関の丘に向かう一直線の都市軸を背骨とする、官庁集中計画ベックマン案を提出します。その頃ベルリンのエンデ&ベックマン建築事務所では、妻木が国会議事堂、渡辺が裁判所、河合が司法省の担当スタッフとして設計に没頭していました。

2011年02月28日

建築家職能運動120年奮闘記 vol21

 妻木頼黄は、幕臣旗本の妻木家の長男として江戸に生まれ、17歳で家屋敷を売り渡米しますが、1878年(明治11年)日本に呼び戻され、工部大学校に入学しました。辰野の5年後輩というわけです。造家学科でコンドルに学びましたが4年で中退、再度渡米します。その後コーネル大学で学士号を取得し、1885年(明治18年)帰国しました。
 翌年、妻木は官庁集中計画の中心である国会議事堂建設の担当として臨時建築局に入り、議院建築の研究のために、渡辺譲(工部大学校2期生)、河合浩蔵(同4期生)ら2人の建築家と、大工をはじめとする各専門職人達20名と共にドイツに渡ります。そして妻木、渡辺、河合の3人の建築家達は、ベルリン工科大学でドイツの建築学を学びながら、エンデ&ベックマン建築事務所でドラフトマンとして働き、建築家としての腕を磨きます。また職人達も、昼はそれぞれの専門の工場や現場で働き、夜は夜学へ通いドイツの優れた建築技術を学んだのです。

松本 純一郎

2011年02月21日

建築家職能運動120年奮闘記 S

 井上は、最初にこの官庁集中計画の案を依頼したコンドルの地味な提案に満足できず、またまたRIBAに助けを求めました。しかし当時のRIBAの事務局長を務めていたW・H・ホワイトはボアンビルの先生で、ボアンビルやコンドルを大切にしない日本政府に不信感を持っていたのか、体よく断られてしまいます。仕方なく井上は、普仏戦争に勝って意気あがる新興ドイツを頼り、当時ドイツの建築界を代表するヘルマン・エンデとウィルヒルム・ベックマンを紹介され、エンデ&ベックマン建築事務所に計画を依頼します。
 一方、国内では1886年(明治19年)内閣直属の組織として「臨時建築局」を創設し、自ら総裁を兼務、三島を副総裁に就任させます。そして、当時27歳の建築家松ヶ崎万長が臨時建築局初代の建築部長に抜擢されるのです。松ヶ崎は辰野の6歳年下、公家出身の建築家で唯一男爵の爵位を持つ、いわば身分の高い人でした。1871年(明治4年)岩倉遣欧使節団に加わりベルリンに留学、ベルリン工科大学で建築を学び1884年(明治17年)帰国したばかりでした。そして、後に官僚建築家のシンボル的存在となり、辰野のライバルとなる妻木頼黄らが、松ヶアの部下として集められたのです。

松本 純一郎

2011年02月14日

建築家職能運動120年奮闘記 R

 一方、外務卿の井上馨の「官庁集中計画」をきっかけに、妻木頼黄を中心とするドイツ派が、臨時建築局を活動の場として活躍し始めるのもちょうどこの頃でした。
 1885年(明治18年)井上馨は、当時警視総監だった三島通庸と組んで日比谷から霞ヶ関一帯に国会議事堂、各省庁、最高裁判所等の官庁を集中し、東京中心部を鹿鳴館と化す「官庁集中計画」を発表します。外務卿が都市計画の主導権をとったのは、欧米諸国から近代国家として認められ、幕末に結ばれた不平等条約を改正するという大きな目的があったからでした。
 井上は以前に銀座煉瓦街計画を始動した経験があり、三島は初代山形県令として最初の山形県庁(明治44年の大火で明治16年竣工の議事堂とともに類焼した)を建設し、県庁前に擬洋風のストリートを完成させた実績を持っていました。このように建築の発するメッセージによる政治的効果をよく知っていた二人によって、この壮大な計画が始まったのです。

松本 純一郎

2011年02月07日

建築家職能運動120年奮闘記 Q

 工部大学校造家学科が1885年(明治18年)までに世に送り出した21名の卒業生と、工部大学校を中退して、あるいは他のコースから留学し欧米で学んだ4名の建築家達が、後に日本の第一世代の建築家と呼ばれる人々です。
 当時、世界の建築界をリードしていたのはイギリス、フランス、ドイツの3国でした。アメリカは、地力は付けつつあったが前面に出るにはまだ時間が必要だったようです。このような世界の状況はそのまま日本にも反映されて、第一世代の建築家達は、それぞれがおかれた立場や偶然に左右されながら、手分けするように、これら三国の建築様式の習得に励んだのです。彼らはその学んだ国によって、イギリス派、フランス派、ドイツ派と呼ばれることになります。
 そのなかで、建築家の職能確立に貢献したのは勿論イギリス派であり、その中心を担ったのがコンドルの教え子達でした。当時イギリス派として活躍したのは、辰野金吾、曾禰達蔵、佐立七次郎(以上一期生)、藤本寿吉(2期生)、久留正道(3期生)、新家孝正(4期生)、滝大吉(5期生)などで、とりわけ屋台骨を支えたのが辰野と曾禰の二人だったのです。

松本 純一郎

2011年02月01日

建築家職能運動120年奮闘記 P

 1884年(明治17年)、コンドルの契約期限が切れると辰野が造家学科教授となります。ここに造家学科初の日本人教授が誕生したのです。
 助教授だった曾禰は、コンドルと一緒にその職を辞することを前もって辰野に告げていました。当時工部大学校の卒業生が中心となって発足していた「工学会」の機関誌の委員をしていた曾禰は、イギリスの建築事情の寄稿を頼むため、辰野の帰国後初めて辰野を訪ねます。その折、彼は工部省での仕事への不満からコンドルに助手にしてほしいと手紙を書いたことや、当然、辰野がコンドルの跡を継ぎ教授になるべきであるという彼の考えを伝えていたのです。そして彼はコンドル退職と同時に助教授を辞し工部省営繕課に戻ることになりました。
 教授の席をめぐって一時、多少ぎくしゃくした二人の友情は、これを機にさらに強固なものとなりました。そして西欧のアーキテクト像の深い理解者だった二人は、日本における初期の建築家職能確立運動の中心的存在として協力し合うことになるのです。

松本 純一郎

2011年01月24日

建築家職能運動120年奮闘記 O

 先週は、建築基本法研究会の韓国事例調査に団長として参加していたので、連載を休んでしまい申し訳ありませんでした。ソウル訪問は大変充実した旅となりました。何かの機会に皆さんにご報告したいと思っています。

 さて、辰野は、僅か半年間でしたがこのイギリスの高名な建築家の事務所で学んだことを生涯の誇りとしていました。そして「アーキテクトにとって最も大事なことは、文化を愛し文化を考えることだ。そのためには様々な国の建築やまちを実際に見ることだ。」という彼の言葉に忠実に従い、最後の一年間は家庭教師を雇い語学を学びながら、パリをはじめとするヨーロッパの各都市の視察に費やしました。(うらやましい!)その記録は「洋行日誌」と写生帖5冊、700を超える建築のスケッチに残されています。
 そして1883年(明治16年)辰野は帰国します。留学前の予定ではコンドルに代わって工部大学校の教授に就任するはずでしたが、コンドルの任期が残っていたため工部省技師となり、最初の作品となる銀行集会所の設計にあたることになりました。その依頼主は、当時第一国立銀行の頭取だった渋沢栄一でした。渋沢は民間にいながらも東京の都市計画にも興味を持ち、様々な構想を考えていました。この出逢いが後の日本銀行本店の設計にも繋がることになるのです。
 一方曾禰は、1881年(明治14年)工部省技師を辞し、自ら望んでコンドルの助手として工部大学校の助教授となっていました。
松本 純一郎

2011年01月11日

建築家職能120年奮闘記 N

 2月に横浜を旅立った辰野らの留学生の一行が、香港、シンガポール、そしてインド洋からスエズ運河を渡り、地中海に入りマルセイユ港に到着した後、汽車でパリからロンドンに着いたのは約一ヶ月半後でした。
 辰野は早速ロンドン大学を訪問し、RIBAの会長も務めた英国建築界の大物でコンドルの従兄、そして恩師でもあるロジャー・スミス教授に会います。彼のアドバイスのもと、ロンドン大学の講義が始まるまでの半年間、日中はキューピット建設会社での実習、夜はロンドン大学の夜間講座の聴講と、西欧の近代的知識を貪欲に吸収しようと頑張ります。そして10月、いよいよ新しい学期が始まってからは日中の講義に加え、夜はコンドルがロンドン大学卒業後働いていたウィリアム・バージェス建築設計事務所でアーキテクトになるための修業に励むことになりました。
 そんな無我夢中の生活のなかで、辰野がスミス教授やウィリアム・バージェスから学んだのは、近代的な工学技術以上に建築における文化的要素の重要性でした。現在、東京大学には彼が持ち帰ったロンドン大学の試験用紙が残っています。それは「建築において国民的な様式を形成するにあずかる影響力のいくつかを指摘せよ。その好例を残した古代と現代の主な国民と民族を指摘せよ。それぞれの様式とおおよその最盛期と有名な実例を述べよ」というものです。
 「建築は土木技術とは違ってその国固有の文化と深く結びついている。従って西洋の建築様式をそのまま移し替えることは不可能である。近代化を進め、欧米の工学技術を学ぶのはよいが、建築というのはあくまで自らの文化や歴史に基づいたものでなければならない」というのが彼らの言わんとするところでした。
松本 純一郎

2011年01月04日

建築家職能運動120年奮闘記 M

 あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願い致します。
さて、辰野と共に第一期生として造家学科を卒業し、造家学士となった曾禰、片山、佐立らは皆、工部省に入省しました。曾禰27歳、片山25歳、佐立23歳のことです。
 工部大学校は官費によって運営され、授業料は無料、しかも小遣いまで支給されたそうですが、そのかわりに卒業後7年間は工部省に奉職することが義務づけられていたのです。
 このように、西欧建築の教育を受けることによって我が国初の建築家が誕生したとはいえ、その立場は西欧のアーキテクトのそれとは異なったものであったといわざるを得ません。その立場は時代が彼らに要請したものでした。
 彼らはまず外国人建築家に代わって、国家のための建築物を洋風建築によって実現する使命を負わされていました。政府の営繕機構に身を置き、西欧建築の指導監督をするという、まさに開拓者としての大きな役割を担っていたのです。しかも洋風建築に対してはまだまだ未熟な技術者や職人、前近代的な建設業界、劣悪な建設材料等未発達な建築界のあらゆる問題に立ち向かわなければならず、その仕事は建築家の仕事を超えた広範なものでした。
 職能という点から見れば、クライアントは国であり、自らは国に仕える官僚という立場であり、施工者との関係は官と民の主従関係ということで、西欧的なプロフェッションとしての自覚を持てなかったのは当然だったのではないでしょうか。

松本 純一郎

2010年12月27日

建築家職能運動120年奮闘記 L

 1879年(明治12年)10月、いよいよ日本で初めての建築家が誕生します。当時は欧米と同じで秋から年度が始まっていました。
 辰野ら工部大学校一期生も入学以来6年目を迎え、6月に卒業設計、9月に卒業論文提出そして卒業試験があり、10月の卒業式というハードなスケジュールに耐えていました。全学科一期生30名のうち卒業できたのは20名。そのうち各学科の首席卒業者が、2年から3年の英国留学という栄誉を与えられることになっていました。
 造家学科においては、卒業設計と卒業論文では片山東熊と曾禰達蔵に負けていた辰野は、不眠不休で望んだ卒業試験で二人を圧倒します。そして落第することだけが心配で努力してきた本人にとっても、思いもよらぬ首席の座を獲得したのです。
 6年間ぶりに唐津に帰郷した辰野は、親の薦めで幼なじみのお秀さんと結婚。その2ヶ月後、他の学科の留学生ら11名とともにロンドンに向けて横浜港を出帆したのは、1880年(明治13年)2月のことでした。
松本 純一郎

2010年12月20日

建築家職能運動120年奮闘記 K

 明治になるまでの日本においても、城郭、寺院から茶室、町家に至るまで建築物は無数に存在していました。それらを計画し建設したのは、主に大工棟梁と呼ばれる職人でした。 
 ブルーノ・タウトが桂離宮を見て、近世日本最大の建築家として絶賛した小堀遠州が建築家に最も近いのかもしれません。JIAを紹介する冊子には、「日本の建築家的存在」という見出しで次のように書かれています。
「日本には工匠制度があり、近世以前に建築家は存在しなかったといわれてきました。しかし、近世以前にも建築技術にも精通し建築を計画しデザインした建築家的存在はいたのです。たとえば13世紀鎌倉時代に活躍した重源は61歳で大勧進を任じられ、国より何ら資金的な援助を受けず15年の歳月をかけ東大寺大仏殿を再建しました。彼は和様唐様と異なる大仏様という極めて構造的で力強い様式を作り出したのです。大仏殿は惜しくも焼失しましたが、東大寺南大門、浄土寺浄土堂に彼のデザインを見ることができます。彼は僧侶でありましたが建築家的存在といえます。また17世紀江戸期の小堀遠州も工匠でもない日本の代表的な環境建築家といえる存在です。城は勿論、殿舎、茶室、庭をよくし、そして遠州好みという様式を確立しています。この他にも多くの日本における建築家的存在を歴史上見ることができます。」
 とはいえ日本が本来の職能としての建築家を得るに至るのは、西欧からの近代文明が伝えられた明治になってからと考えてよいでしょう。

松本 純一郎

2010年12月13日

建築家職能運動120年奮闘記 J

皆さんのコメントをつい最近読んで感激しました。楽しみにしていただいて本当にうれしく思いますし、益々やる気が出てきました。今後ともよろしくお願いします。
  さてヨーロッパ近代で最初の建築家はブルネレスキだと言われています。それまでも建築を造ってきた職人や建築をプロデュースした権力者はいましたが、1人の芸術家としての建築家は彼が最初の存在とされています。彼が生きたルネサンス期には、アルベルティ、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチらがいました。彼らは画家や彫刻家であると同時に物理学、数学などの研究者でもあり、その成果を建築に応用しました。このようにしてヨーロッパでは芸術家にして科学者であり、しかも個人として独立した建築家像ができあがったのです。
そのような歴史的背景から、ヨーロッパでは、建築学科が工学部ではなく美術学部や人文学部に属していたり、独自の建築学部であったりするのも当然だといえます。

2010年12月11日

デザインウィークinせんだい2010初日レポート!


「デザインウィークinせんだい2010」初日のレポートという大役をを仰せつかったものの、やんごとなき理由により大きく遅刻してしまいました。
しかも、JIA宮城の主催「アーキテクツウィーク」のメインイベントである
「JIAフォーラム『アジアの現代建築 - 日本・韓国の建築家がつなぐもの』」のレポートに大きく穴を開けてしまう、という大失態を演じてしまいました……。

急いでメディアテークに駆けつけたときには、既に金先生の講演の最後の部分でした。
古谷さんと金さんの対談は見ることが出来たものの、古谷誠章さんの講演は一切聴けず、金先生の話も最後の部分がとても面白かっただけに、本当に残念でした。
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まさに痛恨に極み!
関係者の皆さんにお詫びをしなくてはなりません!!

次いで、7時からはオープニングパーティです。
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すごく綺麗ないおねぇさんが、派手に踊ってるなぁ、プロは違うなぁ、と思っていたらなんと宮城大の学生さんたちらしいです。いやぁ、すごかった!
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こんな感じで大盛況でした。

われわれJIAのみんなは場所を移して、金先生を囲んでの忘年会です。
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これも盛り上がりました。
楽しかったなぁ・・・。呑みすぎたけど・・・。

ちなみに、なんで「JIAフォーラム」に大遅刻してしまったかというと……、

……実は娘の授業参観だったんです……。
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いつも顔をあわせている、○○ちゃんのおかあさんに満面の笑みで「皆勤賞ですね」と耳打ちされてしまいました……。
いやぁ、お恥ずかしい……。
そんな風に言われると、まるで仕事をしてないみたいじゃないですか!
(てしま)

2010年12月06日

建築家職能運動120年奮闘記 I

 工学寮が開校して2年目の1874年(明治7年)、「工学寮学課並諸規則」が発表され、前にお話した7学科が専門科として設けられることが決まりました。
 当時ウォートルスの設計で完成しつつあった銀座レンガ街に感銘を受け土木を希望した曾禰と、機械を希望していた辰野は、教頭ダイアーの助言や成績の具合もあって、造家への進学が決まります。しかし造家学科は専門の教師も決まっていない状態でした。というのもイギリスではアーキテクチュアの学科は、美術学校か総合大学の独立した学部にあり、ダイアーの母校であるグラスゴー大学を始めとしてイギリスの工学関係の大学にはなかったからです。
 そこでダイアーは当面、以前から明治政府に雇われていたフランス系イギリス人で、工学寮の講堂なども設計したシャルトル・ド・ボアンビルを起用することにしたのですが、あくまで暫定ということでした。ボアンビルは建築技師であったウォートルスらとは違い、100%アーキテクトでしたが、彼の英語がフランス訛りで分かりづらく、建築や建築教育への情熱も今ひとつ、ということで曾禰と辰野はダイアーに不満を訴えます。そして専門科が始まって2年後の1877年(明治10年)に、ようやく正統派の建築家コンドルの来日が実現することになるのです。
松本 純一郎

2010年11月29日

建築家職能運動120年奮闘記 H

 明治維新の起きた1868年(明治元年)と西南戦争が鎮圧された1877年(明治10年)の10年間は、「歴史の峠」として実に興味深い時期です。当時は各藩が競って洋学校をつくり、西洋の文化や技術、特に軍事力を学ぶことに必死になっていました。というのもこのままでは日本が西欧に占領され、国自体がなくなってしまうかもしれないという危機感を強く感じていたからです。そのためには英語教育がまずもって必要だったわけです。
 前に少し触れましたが、江戸生まれで仙台藩足軽の高橋家の養子となった高橋是清は、祖母の薦めで横浜にいたヘボン式で有名なヘボン夫人に英語を学び、僅か13才で仙台藩士富田鉄之助らと共にアメリカに渡りました。そこで様々な苦難を経験し2年後に帰国、大学南校(東大の前身)の英語教師となった後、芸者に入れあげ免職になり17才の時、唐津藩の洋学校の英語教師となりました。そこで高橋は英会話を重視して授業はすべて英語で行い、さらに1872年(明治5年)には女子学生の入学も認めるよう藩に進言し、藩の改革派官僚の娘達が入学します。そこには後に辰野の妻となるお秀さんもいたのです。
 辰野や曽禰は、この藩の洋学校に入り、高橋から使える英語を身につけると同時に高橋の情報通のお陰で、工部寮の開校を知ることになったというわけです。

松本 純一郎

2010年11月22日

建築家職能運動120年奮闘記 G

 工部寮は開校したといっても、体制は急ごしらえ。岩倉具視、大久保利通らと欧米視察旅行中だった伊藤博文が、教師の人選を依頼していたイギリスのグラスゴー大学工学部のM・ランキン教授らの推薦で、門下生のヘンリー・ダイアーら3名が着任し、取りあえず2年間の普通科だけが開校しました。翌年には12名のイギリス人教師も来日し、機械工学者ヘンリー・ダイアーを中心に、世界でも有数の工学教育が始まります。
 その構想は、「独仏の学理的な面と英国の実際面とが融合したエンジニアリング教育」で、学科は土木・機械・造家・通信・化学・冶金・鉱山の7学科、修業期間は6年間で後半の4年間は専門課程で実利的な実務教育でした。
 造家学科の教育も極めて実際的なもので、西欧の建築技術を日本の実地に移すことを主目的として、設計製図と実習を中心に行われました。少数精鋭、そして殆どの授業が英語で行われ、全寮制24時間教育という相当厳しい教育だったそうです。
 辰野は入学した時、全学科30人中30番でした。学生達の中には授業が難しすぎて、諦める者や、憂さ晴らしに吉原に通う様な者もいたらしい。そんななか、どんな時も共有の勉強部屋でもある学生食堂で、朋友曽祢が身体を心配するほど一心不乱に勉強する辰野の姿があったと、後年曽禰が述懐しています。