2013年05月27日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.43

 高橋是清は、後年、日銀副総裁や首相、蔵相を歴任し、2・26事件で青年将校の銃弾に倒れました。そんな「日本のケインズ」と呼ばれるほどの大人物となる後半生に比して、若年時代は想像を絶するほどの波乱に満ちた人生を送っていました。
 高橋は1854年(嘉永7年)狩野派の絵師、川村守房と侍女北原きんの間に非嫡出子として生まれ、4日もたたないうちに仙台伊達藩の藩士、高橋是忠の養子に出されます。是清の人格形成に重要な役割を果たした養祖母の喜代子は、是清に子供のころから英語を学ばせるのです。
 王政復古が宣言された1867年(慶応3年)、後に日銀総裁となる仙台藩士、富田鉄之助らの一行と共に、12歳の若さでサンフランシスコに渡ります。ところが騙されて、意味不明の書類にサインをしたばかりに奴隷として売り買いされたり、様々な失敗を繰り返すのです。帰国後、南校の英語教師となるも、年上の芸者と駆け落ち。借金取りから逃れるために偽名を使って唐津藩の藩校英語教師となり、辰野らとの出会いにつながるわけです。
 前半生だけでも本当に波乱万丈の人生ですね。その後も、浮き沈みの激しい人生を繰り返していた最中に、曾根や辰野らと再会。そんな多くの人生経験を生かして、日銀建設の様々な困難を乗り越えるアイデアを提案し、辰野の建築家職能の実践と施工体制の近代化を、陰に陽に支えました。

松本 純一郎

2013年05月20日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.42

 お雇い外国人の時代から、国の公共建築の実施設計や工事監理は、幕府作事方の流れをくむ臨時建築局が担当していました。辰野はその仕組みを変えようとします。実施設計の詳細図関係は辰野の教え子で工部大学校10期生の葛西萬司、積算・仕様は井上工一、工事監理は岡田時太郎という体制で、日本銀行建築所を開設しました。
 さらにしばらくして、曾根達蔵の提案で、あの高橋是清を建築所の事務主任に推薦します。高橋は唐津藩校時代、曾根、辰野の二人に英語を教え、工部大学校開校の情報を与えて、建築家への道筋を作った人です。そして縁は異なものです。実は曾根は高橋是清の妹と結婚していたのです。
 当時の高橋は、農商務省の特許局長という重要ポストを辞職し、ペルーの銀山開発のために鉱山の管理者として赴きます。しかし、前任者の調査不足が原因で鉱山が廃坑であることが判明し、1890年(明治23年)4月帰国。しばらく、失意の生活を送っていました。その後、当時の日銀総裁川田小一郎の計らいもあり、1892年(明治25年)日銀建築工事総監督となっていた辰野の部下として辰野らを支えることになったのです。

松本 純一郎

2013年05月13日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.41

 1890年(明治23年)夏、辰野が提出した日本銀行本店の設計案が閣議の了承を得て、9月にいよいよ工事がスタートします。ついに、日本人建築家によるはじめての国家的建築の建設が始まったのです。その計画案は、地下1階、地上3階の総石造りでしたが、この年10月に岐阜県を襲った濃尾大地震の被害状況から、建物を軽くするために2,3階は煉瓦造に御影石張りとなりました。様式としては、柱やドームなどのバロック様式に、規則的な窓などのルネサンス様式を取り入れたネオ・バロック様式で、秩序と威厳が表現されています。外観はベルギー国立銀行にならって左右両端を強調して中央を軽く見せるという珍しい構成。中央の壁には銃眼が穿たれ、まさに城砦という雰囲気です。
 日銀本店の建設には、1896年(明治29年)2月まで7年近い歳月が費やされました。その間、辰野は近代的な施工体制作りにも挑戦します。旧幕府作事方の流れをくむ臨時建築局に残っていた、材料や施工に対する目こぼしや公然たる業者からの賄賂等々の悪弊に、目をつぶるわけにはいかなかったのでしょう。
 辰野は「アーキテクトは芸術家であると同時に技術者であり、デザインだけでなく、工事全般を監督し、工事一切に責任を負う職能だ」、ロンドンの建築家バージェスから学んだこのことを実行しようと固く決意し、挑戦したのです。

松本 純一郎

2013年04月22日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.40

 桜井小太郎が登録建築家資格を取得したイギリスでは、日本の幕末期に当たる1834年(天保5年)に、RIBAの前身であるIBAが設立されています。1837年(天保8年)には王室の勅許状(ROYAL CHARTER)を授与され、RIBA(英国王立建築家協会)に名称変更。その後1863年(文久3年)には、独自の建築教育認定試験を実施します。さらに、1887年(明治20年)にはRIBA会員登録試験制度を実施して、建築家職能の確立運動を着実に進めていました。
 ヨーロッパでは中世以来、友愛的な相互扶助を目的とした、職業団体であるギルドが発達していました。イギリスにも、自らの職能(プロフェッション)と構成員の利益を守ることを目的とした、職人のギルドであるクラフトギルドがありました。建築家協会の早い時期の設立は、こうした歴史とも無関係ではないでしょう。
 その後、RIBAや、同じ建築家の団体であるソサエティ・オブ・アーキテクツの半世紀以上にも及ぶ努力の結果、イギリスにアーキテクト登録法が成立したのは、1931年(昭和6年)でした。そのような歴史を経て、現在も行政のバックアップのもとで、RIBAという建築家職能団体が建築家の資格試験制度を取り仕切っているのです。

松本 純一郎

2013年04月15日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.39

 辰野、岡田と共に欧州銀行建築調査に同行した桜井小太郎は、第一高等中学校中退後東京帝大工科大学選科生となり、コンドルの建築事務所で建築実務の指導を受けていた変わり種でした。
 辰野、岡田が帰国したのちもロンドンに留まり、1889年(明治22年)9月にロンドン大学ユニバーサルカレッジに入学し、1890年(明治23年)に好成績で卒業します。その後、ロジャー・スミス建築事務所で2年間実務修習を行った後、1892年(明治25年)には英国王立建築家協会(RIBA)会員登録試験制度の認定試験に合格し、日本人として初めてRIBA公認建築家資格を取得しました。
 桜井は、1893年(明治26年)に帰国し、海軍技師を経て曾根達蔵の勧めで三菱合資会社地所部(現三菱地所)に入社します。そこで技師長として主に丸の内ビジネス街建設に関わり、1923年(大正12年)には桜井小太郎建築事務所を設立し、1935年(昭和10年)竣工の代表作、横浜正金銀行神戸支店(現神戸市立博物館)の設計を最後に引退しました。正面にドーリア様式の円柱が堂々と建ち並ぶ、新古典主義建築の重厚なその外観は、旧神戸外国人居留地の街並みに深みを与えていて、神戸における様式建築の最後期の作品として親しまれています。

松本 純一郎

2013年04月08日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.38

 辰野一行は、1888年(明治21年)の末にロンドンに渡り、岡田と桜井は早速ロンドン大学の講義を聴講することになりました。ロンドン大学はコンドルが卒業し、5年前には辰野も通った日本で建築を学ぶ者にとっては憧れの大学です。
 同時に一行は、今回の旅の主目的である17世紀末に設立された世界最古の中央銀行であるイングランド銀行を見学します。しかし、イングランド銀行は中世のカテドラルを改修したもので、図面は手に入ったものの日銀の設計にはあまり参考にならないことがわかり、辰野はヨーロッパ大陸に渡ることを決意するのです。
 そこで出会ったのが、日銀のお手本にふさわしい10年前に完成したベルギーの国立銀行本店でした。現在も国立銀行の一部に貨幣博物館として残されている、その建築の端正な美しさと重厚な佇まいに感動し、設計者である建築家のアンリ・ベイヤールに会います。そして、この銀行を「城砦」として設計したという話を聞き、当時の覇権を争うヨーロッパ情勢の中での小国ベルギーと、大陸の大国から常に脅かされている日本に相通ずるものを感じ、ベイヤールにアドバイザー就任の要請をします。
 辰野は岡田、桜井と共にベイヤールのアドバイスを受けながら、1889年(明治22年)初めには、日銀の基本計画を完成させました。その貴重な図面をスティール製の大筒に納め大切に抱えて、辰野と岡田がロンドンを発ち帰国したのはその年の秋でした。桜井はロンドン大学に正式入学するため、ひとりロンドンに残ることになりました。

松本 純一郎

2013年04月01日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.37

 辰野に岡田、そして当時まだ18歳だった桜井小太郎という若者を加えて始まった欧米銀行建築調査の旅は、1889年(明治22年)10月までの約1年間に及びました。
 まずはアメリカの主要都市、サンフランシスコ、シカゴ、ワシントン、ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィア等を巡り、合衆国の大蔵省金庫や銀行を調査するなかで、新興国として試みられていた鉄筋コンクリート構造・鉄骨造など新しい技術に接することになります。
 そのなかでも当時のシカゴは、1871年の大火で失われた市街地の復興のさなかで、1880年代から1900年には多くの高層建築が建設されていました。フランク・ロイド・ライトの師であるルイス・サリバンに代表されるシカゴ派と呼ばれる建築家たちが、高層ビルという新たな課題に挑戦していました。鉄骨骨組構造に石積みという新しい建築技術によるサリバンの代表作、オーディトリウムビルが完成したのも、ちょうどその頃1889年(明治22年)です。

松本 純一郎

2012年07月23日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.36

 岡田時太郎は、辰野の同郷唐津藩の生まれで、その生家は辰野の里方に当たる姫松家の向かい側にあり、6歳上の辰野は、岡田にとって兄のような存在だったようです。辰野や曾禰同様、高橋是清が教えていた藩校で英語を学び、1876年(明治9年)から4年間、大阪境造幣寮付属日進学校に通った後、大阪造幣寮に勤めました。
 岡田が建築を始めるのは鉄道省で大阪梅田停車場建築課に配属されてからです。そして27歳の時、辰野の元で最初の助手となり、1888年(明治21年)には辰野に同行し欧米へ行き、そのまま1年間ロンドン大学に留学。建築を学んだのち翌年帰国します。日本銀行本店工事の際には工事主任として腕をふるいますが、日銀本館の工事を終えると独立して岡田工務所を設立します。1905年(明治38年)に完成した岡田の設計による軽井沢の旧三笠ホテルは、国の重要文化財として今も美しい姿をとどめています。
松本 純一郎

2012年07月09日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.35

 山尾庸三が臨時建築局総裁に就任した3か月後の1888年(明治21年)7月、日本銀行は臨時建築局に対し、本店設計者の推薦を依頼します。通貨価値の安定による近代国家への脱皮という重要な使命を担った日本銀行は、1882年(明治15年)に設立されていました。そして、その本店は海外の投資家にも信頼感を与えるような立派な建築が求められたのです。敷地は、官庁集中が計画されている霞が関、日比谷一帯から変更となり、渋沢栄一が提唱していた日本橋商業街計画地の一角に決まりました。
 山尾は早速辰野を訪ね、設計者として推薦することを伝えます。これまで、お雇い外国人建築家に頼らざるを得なかった国の重要建築物を、初めて日本人の建築家が手掛ける時がついにやってきたのです。その時の辰野の喜ぶ顔が目に浮かぶようですね。        
 そして1カ月後の8月には臨時建築局を辞め、岡田時太郎を伴って、銀行建築の調査のため欧米に向けて旅立ちました。
松本 純一郎

2012年07月02日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.34

 そのようななか、外務卿で臨時建築局総裁も兼ねていた日比谷官庁集中計画の推進役でもあった井上馨が、その極端な欧化政策を批判され1887年(明治20年)の9月に失脚してしまいます。そして翌年4月には、かつて工部卿として工部大学校を作った山尾庸三が臨時建築局総裁の後を継ぐことになります。
 山尾はエンデ&ベックマン建築事務所に依頼していた「官庁集中計画」の見直しを決意します。同時に、その時はまだベルリンのエンデ&ベックマン事務所にいた妻木の上司であった松ヶ崎万長を工事部長から解任して、その後任に自分と息の合った辰野金吾を当てたのです。
 以前にも話したように、思わぬ井上の失脚によって妻木らのドイツ派は力を弱め、辰野はヨーロッパから帰国後5年にして、工科大学教授であるとともに造家学会の重鎮、さらには国家の臨時建築局工事部長を兼ねるという、まさに日本の建築界の頂点に君臨することになったのです。
松本 純一郎

2012年06月25日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.33

 造家学会の会合に、会社や自宅のスペースを提供した清水満之助は当時、清水店の3代目店主として近代建築請負業への飛躍を期し、優秀な技術者や設計者の社内への採用を進めていました。造家学会においては第一号の賛助会員となり、支援を惜しまなかったそうです。
 造家学会理事となった坂本復経が、学会設立の1886年(明治19年)、辰野の推薦で清水組に技師長として入社しています。また鳥居菊助も後に、日本土木会社に入社することになるといったように、建築施工会社も優秀な技術者や設計者を採用し、西洋建築移植という国家政策のなかで徐々に力をつけていくことになります。幸い1889年(明治22年)に制定された会計法によって、公共建築の設計施工一貫方式は法的に規制されたものの、建築界一丸となっての新しい国づくりのなかで、設計施工という日本独特の形態の基礎が形作られつつあったのです。
松本 純一郎

2012年06月18日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.32

 造家学会が創立された翌年1887年(明治20年)には、建築教育を総合的に行う、工部大学校に次ぐ二番目の建築教育機関となった工手学校(現工学院大学)が、技師と職人の間に介在する中堅の建築技術者を養成する学校として設立されています。
 政府の富国強兵政策による近代化を達成するために必要な職工の不足が深刻だったため、工学全般にわたって、現場を支える職人を育成するために工科大学教授陣が中心となって工手学校は設立されたのです。工学系8学科のうち造家学科は、辰野が設立運動の中心となり藤本寿吉(工科大学校2期生)も発起人となっています。煉瓦造など新しい建築技術を欧米から移植する役割も建築家に委ねられたといえるのです。
 国を挙げて西洋列強に劣らぬ国力をつけるためにあらゆる力を結集せざるを得なかった、明治という大きな時代背景がありました。日本の建築界が、アカデミーと行政、建設業界の一体化した行動をめざしたなかで、欧米諸国のアーキテクトとは異なる独自の建築家像をもつようになったのもこのような経緯に由来する点が大きいのかもしれません。
松本 純一郎

2012年06月11日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.31

 辰野はイギリスにおいて建築家の下で実務を経験したこともあり、西欧的なアーキテクトの職能を根付かせるためには、独立した建築設計事務所を主宰すること以外に道はないと考えていましたしかしながら彼の建築界における指導的立場はそれを許さず、工科大学教授として、後進を育てるための大学教育に専念せざるを得なかったのです。同時に清水組のように当時、力をつけつつあった建設会社に坂本復経、中村達太郎や渡辺譲といった後輩や教え子を送り込み、技術力の向上や設計部門の確立にも力を尽くしていました。
 日本の社会に建築家の職能を定着させる必要性を辰野と同様に強く感じていた曾禰も、1886年(明治19年)には海軍省の建築技師として活躍していました。そして1890年(明治23年)以降は恩師コンドルの紹介で三菱社に入社し、当時の財閥初の設計組織(現三菱地所設計)を確立するために尽力します。一方で妻木や片山らは、それぞれの官庁に於いて官僚建築家達を指導する立場にありました。
 このように明治初期の建築家達は、民間において設計監理の仕事に専念する立場にはなく、政府内部や国と結びついた財閥のなかで指導力を発揮すると同時に、建設会社の技術力向上にも一役買うといったように、日本の建築界に関するあらゆることに対処しなければならなかったのです。
松本 純一郎

2012年06月04日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.30

 造家学会が設立された1886年(明治19年)の時点では、民間の設計事務所は存在していませんでした。辰野が日本で初めて開設した建築設計事務所も、それを支える社会的基盤もまだなく、また大学に戻るよう要請されたこともあって、まもなく閉鎖せざるをえなかったのもこの頃でした。また造家学会が発行するようになった「建築雑誌」の明治20年9月号では、滝大吉が臨時建築局の職を辞し民間建築師の業務を始めたと伝えていますが、工業史などの資料によると、滝が設計事務所を開設したのは1890年(明治23年)となっています。
 実際、1890年代には河合浩蔵、山口半六、横河民輔、三橋四郎、伊藤為吉、遠藤於菟らが設計事務所を設立していますが、実質的には1888年(明治21年)にコンドルが36歳にして開設した設計事務所が、日本で最初の民間設計事務所であったといえるのです。
松本 純一郎

2012年05月28日

建築家職能運動120年奮闘記vol.29

 造家学会発足初年度である明治19年度の入会員総数は68名、そして主な名誉会員のなかには、初代造家学会名誉会長のコンドルや、のちに初代会長となる青木周蔵の名もあります。青木周蔵は、ドイツをはじめヨーロッパ諸国の公使を歴任し、井上馨外務大臣のもとで外務次官として井上外交を支えた外交官・政治家で、7年間に亘って会長を務めます。
 正会員には勿論、曾禰達蔵、片山東熊、佐立七次郎ら一期生をはじめとする工部大学校卒業生を中心として、妻木頼黄、山口半六らの留学組を含む第一世代の建築家といわれる建築家達も名を連ねています。そのなかで副会長辰野金吾の他に、理事として坂本復経(工部大学校3期生)、鳥居菊助(同4期生)、河合浩蔵、滝大吉(共に同5期生)の4人が選出され、第一回例会が1886年(明治19年)5月5日、日本橋清水満之助邸で開かれています。
松本 純一郎

2012年05月23日

建築家職能運動120年奮闘記 番外編の写真

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スライドショーで、ご覧ください。写真クリックで進みます。
番外編の本文はこちらからどうぞ

2012年05月21日

建築家職能運動120年奮闘記 番外編

 5月1日から10日まで針生承一氏と共に、ブリュッセルとロンドンの震災関連の国際シンポジウムに参加してきました。国際交流基金の協力で、日本大使館、RIBA、ベルギー建築家協会等の後援もあり、とても有意義なシンポジウムでした。針生康・萩原新主宰のSHSHの企画で、ベルギーではボザール(文化芸術センター)を会場として、JIAの支援活動を紹介し、建築家、エンジニア、都市計画課、哲学者と共に震災復興のあり方を議論しました。またロンドンではRIBAホールでアンジェラ・ブラディ会長も交え、建築家、都市計画課、国境のない建築家、芸術批評家等とのワークショップと公開レクチャーを開催しました。詳しいお話は6月中旬に予定されている報告会でお伝えします。
 イギリスでは、古くから医師や弁護士と共にアーキテクトがプロフェッションとして確立されていたそうです。RIBA は1834年に建築家の職能団体IBAとして設立され、1837年に国王から勅許状(ROYAL CHARTER)を授与されRIBA(王立英国建築家協会)となりました。従ってRIBAは、創立後177年も経た伝統と権威ある職能団体です。ビクトール・オルタ設計のベルギーボザールの建築も良かったけれど、今回の会場となったRIBA本部ビルの素晴らしさはそれを示していて、とても感動しました。日本で造家学会が設立された翌年1887年(明治20年)には、RIBA独自の建築家登録試験を実施するほどの力を持っていました。1931年にできた建築家(登録)法は、RIBAを中心とした職能団体のたゆまぬ努力の結果できたもので、名称独占のみのものとなっています。
松本 純一郎

2012年05月14日

建築家職能運動120年奮闘記 VOL.28

 以前お話ししたように、妻木頼黄ら3人の建築家と20人の職人達がベルリンへ発ったのが1886年(明治19年)11月で、その8ヶ月前の4月下旬にベックマンが来日しています。そして、同じ1886年(明治19年)4月10日に、辰野金吾が工部大学校から帝国大学工科大学にかわったばかりの造家学科教授に就任しました。
その少し前に、辰野は工部大学校教授を突然辞任し、日本で初めての建築設計事務所を開きましたが、それが時期尚早でうまくいかないところに曾禰達蔵から大学へ戻るように勧められたのです。同時に曾禰は、建築家の職能団体としての造家学会設立の考えを辰野に伝え、その実質的な指導者になるよう要請します。
 1886年3月15日、新橋で辰野金吾ら工部大学校一期生4名を含む卒業生を中心に、妻木頼黄、山口半六らも加えた15名によって造家学会設立に関する相談会が開かれ、河合浩蔵、辰野金吾、妻木頼黄、松ヶ崎万長の4人が創立委員に選出されました。そして4月9日の創立委員会において、規約が決定され、辰野金吾の副会長就任が決まります。RIBA(英国王立建築家協会)の会長職は貴族等がなることになっていたのに倣って、会長職は空席ということになりました。
 その規約は、RIBAとAIA(米国建築家協会)の規約を訳したものでした。たぶん当初から名誉会長に推挙されたコンドルから多くのアドバイスを受けたに違いありません。当時コンドルの助手をしていた工部大学校4期生の滝大吉がRIBAの会則を、同期の河合浩蔵がAIAの規約をそれぞれ訳し、相互対照し取捨の上、作り上げたといわれています。
 ここに日本建築学会の前身であると同時に、JIA(日本建築家協会)の遠い起源ともいえる、日本で初めての建築家の職能団体が発足することになったのです。しかしながら、この団体は、学術団体としての要素と、職能団体としての要素を併せ持ったもので、その後、時代の流れのなかで、大きく変貌していくことになります。
松本 純一郎

2012年05月07日

建築家職能運動120年奮闘記vol.27

 その後、山口半六は病を得て文部省を休職し、43歳で夭折するまで民間で活躍します。遺作となった旧兵庫県庁(現兵庫県公館)は、ロの字型の平面を持つフランスルネッサンス様式の伝統を踏まえた名建築で、昭和の大改修によってこの様式特有の曲線美豊かなスレート葺きのマンサード屋根が、その正面によみがえりました。
 市民生活のための建築を教育目標とするパリ中央工芸学校で学んだ山口は、第一世代では例外的に国家の記念碑ではなく、学校や会社、地方庁舎といった市民のための建築を創り続けました。そういった意味でもこの世代では異色の建築家であったといえます。
 山口より5歳年上で親友だった曾禰達蔵は、建築学会誌上の略伝で「君、資性愿潔にして沈着、開亮にして貞偉なり。その建築の監督に従事せる皆軌を一にし、一線一画忽にせず。加ふるに学殖富膽、識見高邁、最も玄奥の数理に長ず」と書き記し、山口のきまじめな人柄と優秀さを褒め称えています。
松本 純一郎

2012年04月30日

建築家職能運動120年奮闘記vol.26

 文部省の建築家として活躍した山口半六は、1858年(安政5年)出雲国松江に、松江藩兵学者山口軍兵衛礼行の次男として生まれます。藩校でフランス語を学び、13歳で東京に出て、翌年大学南校(東京大学の前身)に入学。天才として崇め賞されたほど優秀だったそうです。そして文部省の留学生に選抜され、1876年(明治9年)フランスに留学し、国立パリ中央工芸学校で建築を学びます。
 1881年(明治14年)に帰国後、一時、郵便汽船三菱会社でレスカスの下で働いた後、1885年(明治18年)文部省に入ります。そこで久留正道(工部大学校3期生)と共に、第一高等中学校をはじめ金沢の四高、熊本の五高、上野公園に残る日本初のコンサートホールといわれる旧東京音楽学校奏楽堂などを手がけました。1891年(明治24年)には辰野に次いで二人目となる工学博士号を授与されています。もし辰野が工科大学教授を断っていたら、彼がその席に着いていただろうといわれています。
松本 純一郎