2013年05月20日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.42

 お雇い外国人の時代から、国の公共建築の実施設計や工事監理は、幕府作事方の流れをくむ臨時建築局が担当していました。辰野はその仕組みを変えようとします。実施設計の詳細図関係は辰野の教え子で工部大学校10期生の葛西萬司、積算・仕様は井上工一、工事監理は岡田時太郎という体制で、日本銀行建築所を開設しました。
 さらにしばらくして、曾根達蔵の提案で、あの高橋是清を建築所の事務主任に推薦します。高橋は唐津藩校時代、曾根、辰野の二人に英語を教え、工部大学校開校の情報を与えて、建築家への道筋を作った人です。そして縁は異なものです。実は曾根は高橋是清の妹と結婚していたのです。
 当時の高橋は、農商務省の特許局長という重要ポストを辞職し、ペルーの銀山開発のために鉱山の管理者として赴きます。しかし、前任者の調査不足が原因で鉱山が廃坑であることが判明し、1890年(明治23年)4月帰国。しばらく、失意の生活を送っていました。その後、当時の日銀総裁川田小一郎の計らいもあり、1892年(明治25年)日銀建築工事総監督となっていた辰野の部下として辰野らを支えることになったのです。

松本 純一郎
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