2012年07月02日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.34

 そのようななか、外務卿で臨時建築局総裁も兼ねていた日比谷官庁集中計画の推進役でもあった井上馨が、その極端な欧化政策を批判され1887年(明治20年)の9月に失脚してしまいます。そして翌年4月には、かつて工部卿として工部大学校を作った山尾庸三が臨時建築局総裁の後を継ぐことになります。
 山尾はエンデ&ベックマン建築事務所に依頼していた「官庁集中計画」の見直しを決意します。同時に、その時はまだベルリンのエンデ&ベックマン事務所にいた妻木の上司であった松ヶ崎万長を工事部長から解任して、その後任に自分と息の合った辰野金吾を当てたのです。
 以前にも話したように、思わぬ井上の失脚によって妻木らのドイツ派は力を弱め、辰野はヨーロッパから帰国後5年にして、工科大学教授であるとともに造家学会の重鎮、さらには国家の臨時建築局工事部長を兼ねるという、まさに日本の建築界の頂点に君臨することになったのです。
松本 純一郎

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