2012年05月14日

建築家職能運動120年奮闘記 VOL.28

 以前お話ししたように、妻木頼黄ら3人の建築家と20人の職人達がベルリンへ発ったのが1886年(明治19年)11月で、その8ヶ月前の4月下旬にベックマンが来日しています。そして、同じ1886年(明治19年)4月10日に、辰野金吾が工部大学校から帝国大学工科大学にかわったばかりの造家学科教授に就任しました。
その少し前に、辰野は工部大学校教授を突然辞任し、日本で初めての建築設計事務所を開きましたが、それが時期尚早でうまくいかないところに曾禰達蔵から大学へ戻るように勧められたのです。同時に曾禰は、建築家の職能団体としての造家学会設立の考えを辰野に伝え、その実質的な指導者になるよう要請します。
 1886年3月15日、新橋で辰野金吾ら工部大学校一期生4名を含む卒業生を中心に、妻木頼黄、山口半六らも加えた15名によって造家学会設立に関する相談会が開かれ、河合浩蔵、辰野金吾、妻木頼黄、松ヶ崎万長の4人が創立委員に選出されました。そして4月9日の創立委員会において、規約が決定され、辰野金吾の副会長就任が決まります。RIBA(英国王立建築家協会)の会長職は貴族等がなることになっていたのに倣って、会長職は空席ということになりました。
 その規約は、RIBAとAIA(米国建築家協会)の規約を訳したものでした。たぶん当初から名誉会長に推挙されたコンドルから多くのアドバイスを受けたに違いありません。当時コンドルの助手をしていた工部大学校4期生の滝大吉がRIBAの会則を、同期の河合浩蔵がAIAの規約をそれぞれ訳し、相互対照し取捨の上、作り上げたといわれています。
 ここに日本建築学会の前身であると同時に、JIA(日本建築家協会)の遠い起源ともいえる、日本で初めての建築家の職能団体が発足することになったのです。しかしながら、この団体は、学術団体としての要素と、職能団体としての要素を併せ持ったもので、その後、時代の流れのなかで、大きく変貌していくことになります。
松本 純一郎

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