2012年07月23日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.36

 岡田時太郎は、辰野の同郷唐津藩の生まれで、その生家は辰野の里方に当たる姫松家の向かい側にあり、6歳上の辰野は、岡田にとって兄のような存在だったようです。辰野や曾禰同様、高橋是清が教えていた藩校で英語を学び、1876年(明治9年)から4年間、大阪境造幣寮付属日進学校に通った後、大阪造幣寮に勤めました。
 岡田が建築を始めるのは鉄道省で大阪梅田停車場建築課に配属されてからです。そして27歳の時、辰野の元で最初の助手となり、1888年(明治21年)には辰野に同行し欧米へ行き、そのまま1年間ロンドン大学に留学。建築を学んだのち翌年帰国します。日本銀行本店工事の際には工事主任として腕をふるいますが、日銀本館の工事を終えると独立して岡田工務所を設立します。1905年(明治38年)に完成した岡田の設計による軽井沢の旧三笠ホテルは、国の重要文化財として今も美しい姿をとどめています。
松本 純一郎

2012年07月20日

2012-07-12石巻市北上防災集団移転WS 白浜・長塩谷集落

更新が遅くなってしまいましたが、7月12日に白浜・長塩谷集落のWSを行いました。
この日のWSは、白浜集落に松本さんの親戚の方がいるということもあり、和やかな雰囲気で始まりました。
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この集落では、移転案の図面をもとにしてWSをするのは初めてで、いろいろな意見やアイデアが出ました。
概ねよいという反応だったと思いますが、とくに住民の皆さんが気にされていたのは、道路の勾配についてでした。地形に合わせた造成は、工事土量の低減や景観への配慮といったメリットはありますが、高齢者にとっては住みにくいのではないかという懸念があります。そのあたりのバランスが重要かもしれません。
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若い人達にもWSに参加してもらいたいという意見があり、今後若い人も来やすい場を設けることが必要なようです。また、とにかく急いでほしいという思いが1番大きいように感じました。
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WS後は、白浜集落の屋号がデザインされた手ぬぐい(?)について話し合いをされていました。手ぬぐいそのものも素敵ですが、集落の人が集まる機会がつくられることにも意義があります。このWSもそのような役割を持つことができたらと思いました。

真田
posted by JIAみやぎ at 16:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 石巻北上での復興支援活動

2012年07月09日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.35

 山尾庸三が臨時建築局総裁に就任した3か月後の1888年(明治21年)7月、日本銀行は臨時建築局に対し、本店設計者の推薦を依頼します。通貨価値の安定による近代国家への脱皮という重要な使命を担った日本銀行は、1882年(明治15年)に設立されていました。そして、その本店は海外の投資家にも信頼感を与えるような立派な建築が求められたのです。敷地は、官庁集中が計画されている霞が関、日比谷一帯から変更となり、渋沢栄一が提唱していた日本橋商業街計画地の一角に決まりました。
 山尾は早速辰野を訪ね、設計者として推薦することを伝えます。これまで、お雇い外国人建築家に頼らざるを得なかった国の重要建築物を、初めて日本人の建築家が手掛ける時がついにやってきたのです。その時の辰野の喜ぶ顔が目に浮かぶようですね。        
 そして1カ月後の8月には臨時建築局を辞め、岡田時太郎を伴って、銀行建築の調査のため欧米に向けて旅立ちました。
松本 純一郎

2012年07月02日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.34

 そのようななか、外務卿で臨時建築局総裁も兼ねていた日比谷官庁集中計画の推進役でもあった井上馨が、その極端な欧化政策を批判され1887年(明治20年)の9月に失脚してしまいます。そして翌年4月には、かつて工部卿として工部大学校を作った山尾庸三が臨時建築局総裁の後を継ぐことになります。
 山尾はエンデ&ベックマン建築事務所に依頼していた「官庁集中計画」の見直しを決意します。同時に、その時はまだベルリンのエンデ&ベックマン事務所にいた妻木の上司であった松ヶ崎万長を工事部長から解任して、その後任に自分と息の合った辰野金吾を当てたのです。
 以前にも話したように、思わぬ井上の失脚によって妻木らのドイツ派は力を弱め、辰野はヨーロッパから帰国後5年にして、工科大学教授であるとともに造家学会の重鎮、さらには国家の臨時建築局工事部長を兼ねるという、まさに日本の建築界の頂点に君臨することになったのです。
松本 純一郎