2012年06月30日

写真で見るJIA全国学生卒業設計コンクール2012

ちょっと古い先週末の話題ですが、本選の運営に参加してきました。
こちらの公式サイトもあわせてご覧ください。
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(写真をクリックするとスライドショーです)
今年は審査風景をUSTREAM配信する予定でした。しかし、なぜか3次審査が近づくにつれ映像がコマ送り。回線にもう少し力が必要なことが判り、断念。残念。午前中の貴重な配信をご覧になった方はいらっしゃいますか…?会場でスマートフォンからアクセスした委員だけだったかなぁ。
(H)
posted by JIAみやぎ at 19:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 建築雑記

2012年06月25日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.33

 造家学会の会合に、会社や自宅のスペースを提供した清水満之助は当時、清水店の3代目店主として近代建築請負業への飛躍を期し、優秀な技術者や設計者の社内への採用を進めていました。造家学会においては第一号の賛助会員となり、支援を惜しまなかったそうです。
 造家学会理事となった坂本復経が、学会設立の1886年(明治19年)、辰野の推薦で清水組に技師長として入社しています。また鳥居菊助も後に、日本土木会社に入社することになるといったように、建築施工会社も優秀な技術者や設計者を採用し、西洋建築移植という国家政策のなかで徐々に力をつけていくことになります。幸い1889年(明治22年)に制定された会計法によって、公共建築の設計施工一貫方式は法的に規制されたものの、建築界一丸となっての新しい国づくりのなかで、設計施工という日本独特の形態の基礎が形作られつつあったのです。
松本 純一郎

2012年06月18日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.32

 造家学会が創立された翌年1887年(明治20年)には、建築教育を総合的に行う、工部大学校に次ぐ二番目の建築教育機関となった工手学校(現工学院大学)が、技師と職人の間に介在する中堅の建築技術者を養成する学校として設立されています。
 政府の富国強兵政策による近代化を達成するために必要な職工の不足が深刻だったため、工学全般にわたって、現場を支える職人を育成するために工科大学教授陣が中心となって工手学校は設立されたのです。工学系8学科のうち造家学科は、辰野が設立運動の中心となり藤本寿吉(工科大学校2期生)も発起人となっています。煉瓦造など新しい建築技術を欧米から移植する役割も建築家に委ねられたといえるのです。
 国を挙げて西洋列強に劣らぬ国力をつけるためにあらゆる力を結集せざるを得なかった、明治という大きな時代背景がありました。日本の建築界が、アカデミーと行政、建設業界の一体化した行動をめざしたなかで、欧米諸国のアーキテクトとは異なる独自の建築家像をもつようになったのもこのような経緯に由来する点が大きいのかもしれません。
松本 純一郎

2012年06月11日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.31

 辰野はイギリスにおいて建築家の下で実務を経験したこともあり、西欧的なアーキテクトの職能を根付かせるためには、独立した建築設計事務所を主宰すること以外に道はないと考えていましたしかしながら彼の建築界における指導的立場はそれを許さず、工科大学教授として、後進を育てるための大学教育に専念せざるを得なかったのです。同時に清水組のように当時、力をつけつつあった建設会社に坂本復経、中村達太郎や渡辺譲といった後輩や教え子を送り込み、技術力の向上や設計部門の確立にも力を尽くしていました。
 日本の社会に建築家の職能を定着させる必要性を辰野と同様に強く感じていた曾禰も、1886年(明治19年)には海軍省の建築技師として活躍していました。そして1890年(明治23年)以降は恩師コンドルの紹介で三菱社に入社し、当時の財閥初の設計組織(現三菱地所設計)を確立するために尽力します。一方で妻木や片山らは、それぞれの官庁に於いて官僚建築家達を指導する立場にありました。
 このように明治初期の建築家達は、民間において設計監理の仕事に専念する立場にはなく、政府内部や国と結びついた財閥のなかで指導力を発揮すると同時に、建設会社の技術力向上にも一役買うといったように、日本の建築界に関するあらゆることに対処しなければならなかったのです。
松本 純一郎

2012年06月04日

建築家職能運動120年奮闘記 vol.30

 造家学会が設立された1886年(明治19年)の時点では、民間の設計事務所は存在していませんでした。辰野が日本で初めて開設した建築設計事務所も、それを支える社会的基盤もまだなく、また大学に戻るよう要請されたこともあって、まもなく閉鎖せざるをえなかったのもこの頃でした。また造家学会が発行するようになった「建築雑誌」の明治20年9月号では、滝大吉が臨時建築局の職を辞し民間建築師の業務を始めたと伝えていますが、工業史などの資料によると、滝が設計事務所を開設したのは1890年(明治23年)となっています。
 実際、1890年代には河合浩蔵、山口半六、横河民輔、三橋四郎、伊藤為吉、遠藤於菟らが設計事務所を設立していますが、実質的には1888年(明治21年)にコンドルが36歳にして開設した設計事務所が、日本で最初の民間設計事務所であったといえるのです。
松本 純一郎