2012年05月28日

建築家職能運動120年奮闘記vol.29

 造家学会発足初年度である明治19年度の入会員総数は68名、そして主な名誉会員のなかには、初代造家学会名誉会長のコンドルや、のちに初代会長となる青木周蔵の名もあります。青木周蔵は、ドイツをはじめヨーロッパ諸国の公使を歴任し、井上馨外務大臣のもとで外務次官として井上外交を支えた外交官・政治家で、7年間に亘って会長を務めます。
 正会員には勿論、曾禰達蔵、片山東熊、佐立七次郎ら一期生をはじめとする工部大学校卒業生を中心として、妻木頼黄、山口半六らの留学組を含む第一世代の建築家といわれる建築家達も名を連ねています。そのなかで副会長辰野金吾の他に、理事として坂本復経(工部大学校3期生)、鳥居菊助(同4期生)、河合浩蔵、滝大吉(共に同5期生)の4人が選出され、第一回例会が1886年(明治19年)5月5日、日本橋清水満之助邸で開かれています。
松本 純一郎

2012年05月23日

建築家職能運動120年奮闘記 番外編の写真

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2012年05月21日

建築家職能運動120年奮闘記 番外編

 5月1日から10日まで針生承一氏と共に、ブリュッセルとロンドンの震災関連の国際シンポジウムに参加してきました。国際交流基金の協力で、日本大使館、RIBA、ベルギー建築家協会等の後援もあり、とても有意義なシンポジウムでした。針生康・萩原新主宰のSHSHの企画で、ベルギーではボザール(文化芸術センター)を会場として、JIAの支援活動を紹介し、建築家、エンジニア、都市計画課、哲学者と共に震災復興のあり方を議論しました。またロンドンではRIBAホールでアンジェラ・ブラディ会長も交え、建築家、都市計画課、国境のない建築家、芸術批評家等とのワークショップと公開レクチャーを開催しました。詳しいお話は6月中旬に予定されている報告会でお伝えします。
 イギリスでは、古くから医師や弁護士と共にアーキテクトがプロフェッションとして確立されていたそうです。RIBA は1834年に建築家の職能団体IBAとして設立され、1837年に国王から勅許状(ROYAL CHARTER)を授与されRIBA(王立英国建築家協会)となりました。従ってRIBAは、創立後177年も経た伝統と権威ある職能団体です。ビクトール・オルタ設計のベルギーボザールの建築も良かったけれど、今回の会場となったRIBA本部ビルの素晴らしさはそれを示していて、とても感動しました。日本で造家学会が設立された翌年1887年(明治20年)には、RIBA独自の建築家登録試験を実施するほどの力を持っていました。1931年にできた建築家(登録)法は、RIBAを中心とした職能団体のたゆまぬ努力の結果できたもので、名称独占のみのものとなっています。
松本 純一郎

2012年05月15日

東北支部総会参加して

 昨年以来本当に大変な日々が続いてきましたが、東北支部、地域会の皆さんの元気なお顔を拝見でき嬉しく思います。
 総会では、次年度の積極的な事業計画が確認され、東北の力強さを感じる事が出来ました。
公益法人に向けた組織、制度改革にやっと目処が着いてきました。これからは支部、地域会を主体に活動の中身を充実させて行く時です。
東北支部、地域会の皆さんが復興支援活動や地域に根差した社会貢献活動を推進して行くなかで公益法人に相応しい社会に貢献する建築家の姿を示し、活動を展開して頂くことを期待しています
皆さん、懇親会の勢いで、ガンバロー!
水戸部さん、ご苦労様でした。
渡辺新支部長、宜しくお願いします。

日本建築家協会会長 芦原太郎
posted by JIAみやぎ at 10:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 芦原会長から

2012年05月14日

建築家職能運動120年奮闘記 VOL.28

 以前お話ししたように、妻木頼黄ら3人の建築家と20人の職人達がベルリンへ発ったのが1886年(明治19年)11月で、その8ヶ月前の4月下旬にベックマンが来日しています。そして、同じ1886年(明治19年)4月10日に、辰野金吾が工部大学校から帝国大学工科大学にかわったばかりの造家学科教授に就任しました。
その少し前に、辰野は工部大学校教授を突然辞任し、日本で初めての建築設計事務所を開きましたが、それが時期尚早でうまくいかないところに曾禰達蔵から大学へ戻るように勧められたのです。同時に曾禰は、建築家の職能団体としての造家学会設立の考えを辰野に伝え、その実質的な指導者になるよう要請します。
 1886年3月15日、新橋で辰野金吾ら工部大学校一期生4名を含む卒業生を中心に、妻木頼黄、山口半六らも加えた15名によって造家学会設立に関する相談会が開かれ、河合浩蔵、辰野金吾、妻木頼黄、松ヶ崎万長の4人が創立委員に選出されました。そして4月9日の創立委員会において、規約が決定され、辰野金吾の副会長就任が決まります。RIBA(英国王立建築家協会)の会長職は貴族等がなることになっていたのに倣って、会長職は空席ということになりました。
 その規約は、RIBAとAIA(米国建築家協会)の規約を訳したものでした。たぶん当初から名誉会長に推挙されたコンドルから多くのアドバイスを受けたに違いありません。当時コンドルの助手をしていた工部大学校4期生の滝大吉がRIBAの会則を、同期の河合浩蔵がAIAの規約をそれぞれ訳し、相互対照し取捨の上、作り上げたといわれています。
 ここに日本建築学会の前身であると同時に、JIA(日本建築家協会)の遠い起源ともいえる、日本で初めての建築家の職能団体が発足することになったのです。しかしながら、この団体は、学術団体としての要素と、職能団体としての要素を併せ持ったもので、その後、時代の流れのなかで、大きく変貌していくことになります。
松本 純一郎

2012年05月07日

建築家職能運動120年奮闘記vol.27

 その後、山口半六は病を得て文部省を休職し、43歳で夭折するまで民間で活躍します。遺作となった旧兵庫県庁(現兵庫県公館)は、ロの字型の平面を持つフランスルネッサンス様式の伝統を踏まえた名建築で、昭和の大改修によってこの様式特有の曲線美豊かなスレート葺きのマンサード屋根が、その正面によみがえりました。
 市民生活のための建築を教育目標とするパリ中央工芸学校で学んだ山口は、第一世代では例外的に国家の記念碑ではなく、学校や会社、地方庁舎といった市民のための建築を創り続けました。そういった意味でもこの世代では異色の建築家であったといえます。
 山口より5歳年上で親友だった曾禰達蔵は、建築学会誌上の略伝で「君、資性愿潔にして沈着、開亮にして貞偉なり。その建築の監督に従事せる皆軌を一にし、一線一画忽にせず。加ふるに学殖富膽、識見高邁、最も玄奥の数理に長ず」と書き記し、山口のきまじめな人柄と優秀さを褒め称えています。
松本 純一郎