2011年02月28日

建築家職能運動120年奮闘記 vol21

 妻木頼黄は、幕臣旗本の妻木家の長男として江戸に生まれ、17歳で家屋敷を売り渡米しますが、1878年(明治11年)日本に呼び戻され、工部大学校に入学しました。辰野の5年後輩というわけです。造家学科でコンドルに学びましたが4年で中退、再度渡米します。その後コーネル大学で学士号を取得し、1885年(明治18年)帰国しました。
 翌年、妻木は官庁集中計画の中心である国会議事堂建設の担当として臨時建築局に入り、議院建築の研究のために、渡辺譲(工部大学校2期生)、河合浩蔵(同4期生)ら2人の建築家と、大工をはじめとする各専門職人達20名と共にドイツに渡ります。そして妻木、渡辺、河合の3人の建築家達は、ベルリン工科大学でドイツの建築学を学びながら、エンデ&ベックマン建築事務所でドラフトマンとして働き、建築家としての腕を磨きます。また職人達も、昼はそれぞれの専門の工場や現場で働き、夜は夜学へ通いドイツの優れた建築技術を学んだのです。

松本 純一郎

2011年02月22日

東北新幹線 E5系「はやぶさ」特別試乗会

ようやくウツを脱却。アニアルレポートもあるし…
さて、妹の代理にて(このネタばっかり)、試乗会に参加。

2月19日 8:38大宮→9:48仙台 10:14仙台→11:35大宮

なんか素敵でしょう。関東圏向けの招待状。ついノッテシマウ自分。

11022201.jpg
11022202.jpg
大宮駅。このセンス、好きです        倍率60とも云われる乗車券

期待を胸にホームに向かう。

11022203.jpg 11022204.jpg
鉄チャンの血が…              団体なんだ

ついにご対面。

11022205.jpg

係員より、『後でゆっくり撮影できますので、ご乗車ください』と促され、車中の人に。
11022206.jpg 11022207.jpg 11022208.jpg    
天井がなんとなく気に入る  車椅子対応トイレ   扉を開けると

車内放送。JR東日本常務の挨拶、「はやぶさ」のコンセプト、性能の説明等の後、宇都宮付近から300km走行になるとのこと。而して「ただ今より300km走行に入ります。現在280km。…285km。…290km。…295km。…300kmになりました。国内最高速度…」と聞きながら、このワクワク感、久しく感じていなかったなあ、大阪万博で初めて乗った東海道新幹線0系のビュッフェにあった速度計の針に見入っていた自分を思い出していました。暫くしてグランクラス見学。グリーン車に一旦待機。

11022209.jpg 11022210.jpg
右上に座面のLED読書灯が写る        グリーン車席トレー。

ついにグランクラスへ。
グリーンを含め、まあ来ない場所なんだろうなあ、と思いつつ、見学。
通路にビニール敷いてるし、シートは電源切っていて動かせないし、体感せず退去。
11022211.jpg 11022212.jpg
グランクラス内部              この色いいなあ

さて、仙台着。他の乗客は仙台土産を物色するも、私は喫煙所にて一服。仙台にて実感したこと。「はやぶさ」は鼻が長いので、1号車は引きが無く、駅内では10号車が撮影楽。
最後にお土産。

11022213.jpg 11022214.jpg
お土産。車中にて              写真立。吉永さん綺麗

横山 芳一
posted by JIAみやぎ at 08:31| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記!のようなもの…

2011年02月21日

建築家職能運動120年奮闘記 S

 井上は、最初にこの官庁集中計画の案を依頼したコンドルの地味な提案に満足できず、またまたRIBAに助けを求めました。しかし当時のRIBAの事務局長を務めていたW・H・ホワイトはボアンビルの先生で、ボアンビルやコンドルを大切にしない日本政府に不信感を持っていたのか、体よく断られてしまいます。仕方なく井上は、普仏戦争に勝って意気あがる新興ドイツを頼り、当時ドイツの建築界を代表するヘルマン・エンデとウィルヒルム・ベックマンを紹介され、エンデ&ベックマン建築事務所に計画を依頼します。
 一方、国内では1886年(明治19年)内閣直属の組織として「臨時建築局」を創設し、自ら総裁を兼務、三島を副総裁に就任させます。そして、当時27歳の建築家松ヶ崎万長が臨時建築局初代の建築部長に抜擢されるのです。松ヶ崎は辰野の6歳年下、公家出身の建築家で唯一男爵の爵位を持つ、いわば身分の高い人でした。1871年(明治4年)岩倉遣欧使節団に加わりベルリンに留学、ベルリン工科大学で建築を学び1884年(明治17年)帰国したばかりでした。そして、後に官僚建築家のシンボル的存在となり、辰野のライバルとなる妻木頼黄らが、松ヶアの部下として集められたのです。

松本 純一郎

2011年02月20日

アンダー40セミナー体験記

2011-02-20-b.jpg

先日行われた「アンダー40セミナー in仙台」に行ってまいりました!
基調講演は非常に刺激的な内容でしたが、日常業務に忙殺され、今日の日曜日も久し振りの休日をとって、この内容をUPしようと思っていましたが……、結局溜まりに溜まった仕事をこなす羽目になり、仕事と仕事の合間には、行かなければと思いつつ、行けなかった知人のお見舞いで病院めぐりをし、……せっかくの内容をここに書き写す気力が残っていません…。本当に申し訳ありません!!!ああ、残念です!

2011-02-20-a.jpg

…しかし、疲れた……
(mm)
posted by JIAみやぎ at 15:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 建築雑記

2011年02月14日

建築家職能運動120年奮闘記 R

 一方、外務卿の井上馨の「官庁集中計画」をきっかけに、妻木頼黄を中心とするドイツ派が、臨時建築局を活動の場として活躍し始めるのもちょうどこの頃でした。
 1885年(明治18年)井上馨は、当時警視総監だった三島通庸と組んで日比谷から霞ヶ関一帯に国会議事堂、各省庁、最高裁判所等の官庁を集中し、東京中心部を鹿鳴館と化す「官庁集中計画」を発表します。外務卿が都市計画の主導権をとったのは、欧米諸国から近代国家として認められ、幕末に結ばれた不平等条約を改正するという大きな目的があったからでした。
 井上は以前に銀座煉瓦街計画を始動した経験があり、三島は初代山形県令として最初の山形県庁(明治44年の大火で明治16年竣工の議事堂とともに類焼した)を建設し、県庁前に擬洋風のストリートを完成させた実績を持っていました。このように建築の発するメッセージによる政治的効果をよく知っていた二人によって、この壮大な計画が始まったのです。

松本 純一郎

2011年02月11日

「宮城県看護協会会館・看護研修センター」建築見学会と、建築批評会

少し遅くなりましたが、『「宮城県看護協会会館・看護研修センター」の建築見学会と建築批評会』のご報告です。
2011-02-11a.jpg


続きを読む
posted by JIAみやぎ at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | オープンハウス見学記

2011年02月07日

建築家職能運動120年奮闘記 Q

 工部大学校造家学科が1885年(明治18年)までに世に送り出した21名の卒業生と、工部大学校を中退して、あるいは他のコースから留学し欧米で学んだ4名の建築家達が、後に日本の第一世代の建築家と呼ばれる人々です。
 当時、世界の建築界をリードしていたのはイギリス、フランス、ドイツの3国でした。アメリカは、地力は付けつつあったが前面に出るにはまだ時間が必要だったようです。このような世界の状況はそのまま日本にも反映されて、第一世代の建築家達は、それぞれがおかれた立場や偶然に左右されながら、手分けするように、これら三国の建築様式の習得に励んだのです。彼らはその学んだ国によって、イギリス派、フランス派、ドイツ派と呼ばれることになります。
 そのなかで、建築家の職能確立に貢献したのは勿論イギリス派であり、その中心を担ったのがコンドルの教え子達でした。当時イギリス派として活躍したのは、辰野金吾、曾禰達蔵、佐立七次郎(以上一期生)、藤本寿吉(2期生)、久留正道(3期生)、新家孝正(4期生)、滝大吉(5期生)などで、とりわけ屋台骨を支えたのが辰野と曾禰の二人だったのです。

松本 純一郎

2011年02月04日

大物建築家の育児

また今年も年度末卒業のシーズンが迫ってまいりました。
年度末にひとつの区切りのある公共工事と違い、特にこれといった節目のない民間の建物の設計監理を生業としている身にとっては、そういった季節感は、いつの間にか縁遠い存在になってしまっていました。

2011-02-04.jpg

しかし、今年の年度末は、卒業のシーズンが近づきつつあることが、我が身のこと以上に、心に迫って来ます。
この春に、うちの次女が保育所を「卒所」するのです。
長女の時から数えて7年ですか、当たり前のように日常生活の中での拠点となっていた保育所に、この春から通わなくなってしまうのです。私自身は「育児する父親」としてずっと優等生ではなかったので、毎日送り迎えをしていたわけではありません。カミサンの不測を補うように送り迎えをする、という感じですかね。しかし、長女が保育所に通っていたころは、わたしが毎日保育所に連れて行っていました。車の中で、こどもと変な替え歌を大声で歌いながら……、です。
そういうこともあって、私自身が何か大切な時期を卒業してしまうようで、妙に神妙な心持になってしまうのです。
あのころは、母親と引き離されて泣き叫ぶ子供をどうあやしていいかも分からず、こどもの気を紛らわせるために、変な歌を意味も無く大声で歌っていたんです。

保育所の送迎といえば、こんなことを思い出しました。
私が最初に丁稚奉公をしてお世話になった建築家は、毎朝こどもを保育所に送っていっていました。
彼の奥さんも建築家で、別々に事務所を開設していたのですが、奥さんは朝4時に起きてすぐに仕事に掛かって夕方まで仕事をし、保育所にこどもを迎えに行って夕飯を食べさせ、こどもと一緒に9時には就寝していたそうです。私の師匠は、奥さんと入れ替わって、朝9時に起きこどもに朝食を食べさせ、保育所に送ってから10時半に事務所に来ていました。その夫婦の育児ローテーションのせいもあって彼の事務所は10時半の始業でしたが、夜は終電過ぎまで仕事を続けていました。
まるで、子供をバトンにしてリレーを繰り返す駅伝のような暮らしですよねぇ。奥さんと私の師匠は決して併走することなく、自分に与えられた区間を一生懸命走り抜けるのですから……。

いまや日本を代表する建築家のひとりとなったその建築家のパブリックイメージからすると、とてもそんなことをするひとには見えないのですが、とにかく毎日続けていました。5歳違い(?)の妹さんもいたので、十年以上そうしていた筈です。

私の師匠は、「小説家で言うと遅筆」というヤツで、延々と考え続け、ずーっと考え続け、それでも全く結論を出さず、工事に入ってからも考え続け、そして着工したときからは全く違うものが出来上がっている、というスタイルの建築家です(笑)。
悪く言うと優柔不断で、決断できないタイプで、晴れやかな結論が出ずにいつも鬱々と考え込んでいる感じの人間なのですが、数年前にあった還暦祝いの席で、
「そういえば、○○さん(その建築家の名前です)、毎朝、保育所の送迎をやってましたねぇ。ボクも毎朝、本当に大変で、大変で、…」と愚痴をこぼしかけていたところ、

その建築家は、私がいままで見たことのないような自信に溢れた笑顔を見せ、にかっと笑ってこう言いました。
「俺はやったよ!!!」
多分、彼には保育所の送迎に関しては、誰に羞じることもない完全無欠の達成感があるのでしょう。
その晴れやかな表情には、ちょっとびっくりしました。
建築では「途中」感溢れる師匠「○○サン」の、建築を介しては絶対に見れない、人間としての充足感が覗き見れた瞬間でありました。

(T)

……ここで私が記名してしまうと、当然、その大御所建築家が誰か分かってしまうので、伏せておきます(笑)
posted by JIAみやぎ at 17:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記!のようなもの…

2011年02月02日

設計教育のアマチュア

さて、今日の話題も先日お話した二年生の設計課題の非常勤講師のことです。
2011-02-02.jpg

二ヶ月に渡るエスキスを終了し、先日、最終講評会なるものに出掛けてきました。
私が非常勤講師として参加している某大学の設計課題では、二年生五十数人について三人の講師がつき、一人当たり二十人弱の学生を受け持つことになっています。設計課題の設定は、大きく「住宅」というくくりはあるものの、それ以外のことはすべてそれぞれの講師に任されています。三人の講師がそれぞれ、趣向を凝らして、学生の教育上有効だと考える課題を設定するのですが、これがまた、悩みどころなのです。
設計教育のプロでない私が、どんな課題が大学二年生にとって教育上有効か、幾ら考えたって思い浮かぶわけがありません。二十年前の無知な自分がどんな学生でどんなことを考えていたのか、二十年前の無知な自分にもっとも望ましい教育は何か……。

去年の課題では、できるだけ自由に考えさせてあげようと考え、敷地の設定も曖昧にし「仙台市の西公園の何処にでも自分の好きな住宅を建ててよし!!」という課題にしました。
その課題が良い課題だったのかどうか自分でもよく分かりませんが、課題を終えてみると、自分の中にどうにも「後味の悪い感じ」が残ってしまいました。
結局、学生が相手だとは言え、人の作ったものにあーだ、こーだ、とコメントを付けているのが、どうにも自分の性に合わず、居心地が悪いのです。居心地が悪いだけならまだしも、本当であれば、はっきりと「良い」「悪い」を学生に言ってやらなければならない立場であるにも係わらず、それが言い辛い気持ちになってしまうのです。その点をとっても、私は教育のプロにはなれないなぁ、と思ってしまいました。こう見えても、去年はけっこう凹んでいたんです。

そんなこともあり、どんな設計課題がふさわしいかについてはかなり思案しました。それは「建築初心者である大学二年生にとってふさわしい課題は何か」ということでもあり、もうひとつ更に重要なことは、「設計教育のプロでない講師にとってふさわしい課題設定は何か」ということでもありました。

結局、課題はこうしました。
そのとき、私の事務所で進めている住宅の基本設計の終了時期が、設計課題の提出時期と、ちょうど重なりそうでした。その敷地と、クライアントのプロフィール、要望をそのまま設計課題に設定することにしたのです。
学生たちと私の事務所で、同じ課題を対等な条件で設計を進めて行き、最後の課題提出の際には、私も学生と同じように「どう課題を解いて、どんな設計になったか」を発表します。
最初の課題の説明時には、学生にはこう言って置きました。
「君たちには、最後に、私の設計した住宅(の模型)を指差して『あのおっさん、偉そうなこと言った割には、ダサい』と言える機会をあげよう。言える度胸があるヤツは、それだけで評価してやる。お互いに自分の空想して良いと信じた建築を前にして、対等に喧嘩しよう!」

そんな課題の効果はテキメンでしたね。
もちろん「設計教育のアマチュア」である自分にとって、です(笑)。学生にとって、どうだったかは知りません……。
私は、学生のやってきた模型やスケッチを前にして、好きなことを思いっきり言う事が出来ました。

結局、「建築家」であり「建築の作家」である自分には、一般的なことは言えないんですよ。自分の立っている場所を定めて、今作っている手の感触からしか、何も言えないんです。それが本当に学生のためになっているかどうかは、自分には分かりません。

最終講評会の席で、居並ぶ設計教育のプロたち(大学の先生方)の学生の発表に対する積極的で的確な発言を聞いていると「やはりプロだなぁ、これの真似をしようとしても、敵うわけがないなぁ」と思い知らされる気がしました……。
手島
posted by JIAみやぎ at 18:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 建築雑記

2011年02月01日

建築家職能運動120年奮闘記 P

 1884年(明治17年)、コンドルの契約期限が切れると辰野が造家学科教授となります。ここに造家学科初の日本人教授が誕生したのです。
 助教授だった曾禰は、コンドルと一緒にその職を辞することを前もって辰野に告げていました。当時工部大学校の卒業生が中心となって発足していた「工学会」の機関誌の委員をしていた曾禰は、イギリスの建築事情の寄稿を頼むため、辰野の帰国後初めて辰野を訪ねます。その折、彼は工部省での仕事への不満からコンドルに助手にしてほしいと手紙を書いたことや、当然、辰野がコンドルの跡を継ぎ教授になるべきであるという彼の考えを伝えていたのです。そして彼はコンドル退職と同時に助教授を辞し工部省営繕課に戻ることになりました。
 教授の席をめぐって一時、多少ぎくしゃくした二人の友情は、これを機にさらに強固なものとなりました。そして西欧のアーキテクト像の深い理解者だった二人は、日本における初期の建築家職能確立運動の中心的存在として協力し合うことになるのです。

松本 純一郎